兵庫県内中世山城跡探訪

※県内三大名城=利神城・洲本城・武田城
城   名 標 高 △ 所 在 地 年 月 日
   
芥田城(あげたじょう)
297.0 なし 加西市上芥田の西尾根
城跡らしき印象が無く297mピークは素通りしていた。
19. 5.27 706
   
石積山城
(△高木)
111.6
姫路市花田町高木の西
城跡の形跡全くなし。狭い平地のみ。
21.1.30
岩屋城
506.0 
なし
山南町岩屋『石龕寺』の北

手作り案内板=「往時の山頂の平地(約5.5アール)の大部分は陶石(カオリナイト採掘で削りとられている。断崖に注意。岩屋山頂標高506メートル(岩屋古城趾)北の高見城に通じ、南は小川、久下、和田、西は氷上町、北東は柏原町を見おろす要害の地であって戦国時代広沢綱忠がここに拠ったと伝える。中世は丹波の修験の根拠地として熊野・白山両権現を祀っていた。よく晴れた日は瀬戸内海をも望める。」
18. 6. 4 677
10. 3.17 507
09.12.27
09.12. 8 501
09.11. 4 495
06. 9. 9
 388
02. 3.31 227
01. 4.22
97.12.21
飯盛山/春日山   197.9 ➂ 福崎町鍛冶屋・八種/城跡 妻と散策 
平成元年頃 ?

岩尾城 (蛇山)
   
358.0 
なし
山南町和田の北
岩尾城は戦国時代の山城で天正7年(1579)明智光秀の丹波攻めにより落城した・・・。

1516年に築城するも明智光秀の「丹波攻め」により(1579年)落城、再建されるが(1596年)秀吉の城取り壊しの命により廃城(岩尾城中心部の縄張り図看板より抜粋)それにしてもこれだけ凄い量の石は何処に有って運び込まれたのか・・・。「岩尾」と名が付くくらいだから石はふんだんに有ったのか・・・。

08. 5. 7 433
08. 1. 1 415
06.12.17 397
99. 6.27
   う
宇仁山城(△奥山寺)
260.3 ④ 加西市田谷町の北・西脇市 
地図№21~27まで関連

島田君が言う「城跡」の始まりである、右は凄い樫の木林で薄暗い尾根を行って 27・(14:53) このピークは前後ともに2~3の段状になっていて明らかに城跡と分かった。
04.12.25  328


空木城(うとろぎ)
270.0 なし

夢前町菅生澗(すごうだに)の西 伊勢山の北西直近


城郭研究で有名な木内内則氏の原図の看板によると空木城は別名『赤松遠見の城』とも呼ばれている等々原図とともに記されていた。

13.11.11 595
13. 9.13 589
11. 4.18
05.12.17 364
  え
烏帽子山烏帽子岳
烏帽子山城・烏帽子城
512.5  ③  青垣町山垣の北東・福知山市福知山市小牧・下戸
と氷上郡青垣町山垣(やまがい)との府県境界 


東方行の木の間から『ふれあいの里』が見える。3段目の郭にこじんまりした神社が在ってその下の掘り切り先に大きめの郭あり、そこから更に下ろうと思ったが下は高速道の工事中で少し引き返して西向きに下ると麓の墓地の所に出た。
04. 4.10 295 
   
小和田城址
中佐治・愛宕山
294.9 ④ 青垣町沢野の北尾根

古びたお堂の前に石灯篭と石碑が建っていた。灯篭は文政4年(1821)建之、自然石の石碑には「愛宕山 経塔」と判読。地元では中佐治を愛宕山と呼んでいるようだ。道も尾根についていたのでここから上った。(9:40)直ぐ石仏や五輪塔その少し上に小さな稲荷神社。桧林の尾根に踏み跡が続いてやがて城跡の証しである郭跡、4段目で平坦な頂に着く。(10:00) 掘り切りを通過すると傾斜が増して、再度ヤブっぽくなり大岩が重なり愛宕山の名に相応しくなるもそこだけだった。
03.10.19  277
置塩城(おじお・おきしお)
(城山)
349.0 姫路市夢前町又坂の東

「考古資料で見る新姫路市の歴史」より
置塩城は、戦国時代に播磨守護赤松氏によって築かれた播磨地方最大の山城で、その居城として使用されました。永禄12(1569)年以降、織田信長の播磨侵攻が始まると赤松則房は織田方に味方し、置塩城で毛利方の攻撃を撃退するなどの戦功を上げています。天正8(1580)年、播磨を平定した羽柴秀吉は置塩城以下9城の破却を命じており、この段階で廃城になったものとかんがえられます。
18.10.21 祭り
岡城
宮山(みやま)
514.4  一宮町須行名伊和神社の東
『天正八年(1580)羽柴秀吉が長水城を攻め落とした際にこの城も落城したものと伝えられている・・・抜粋』
11. 7.15 539
02. 9.21  243
12. 5.16 557 
09.12.12 502
大嶽山の城跡 452.9  神河町寺前の東

石標は無傷で施設と城跡の間に立っていた。探索に入りかけた時ワラビが生えていたので先にワラビ採りをした。その後城跡の探索に入る。最高点とその周りは岩場で、北面に石垣が残っていた。そこから北面のやや離れた所を歩いていると両手こぶし大位の川原石の溜まり場があった。この石、もしかして敵が攻め上がって来た時上から敵にめがけて投げつけるための石・・・。
06. 5. 5 377 
  か
春日山城 福崎町八千種
春日山城は、建武年間に築城され、播磨の守護赤松氏の幕下であった後藤三郎左衛門尉基明が初代城主として、現在の福崎町全域と姫路市、加西市の一部を統治していました。応仁の乱には、赤松政則の部下として出陣し、山名の軍勢を破って軍功を立てました。

いつの日だったか
何かのついでに
妻と上った
柏原城 490 なし 山崎町国見山の西境界上

11・461m(12:04)次第に「城跡か・・・」と思う地形になり始める。12・(12:09)平地が出て城の郭か出城かと思う。高木雑木帯で今日一番感じの良い所。5年前の台風被害か倒木が多くもそれが切り開かれ通過した。(城跡と感じる明確な跡なし) 
09. 5.27 477
09. 5. 9 474



感状山城
 
感状山(かんじょう)
305.0 なし 相生市瓜生「羅漢の里」右尾根

10年:ガラ場(築城に関わる石か?)となって間もなく尾根に向かって上り始める。尾根近くに在る『井戸跡(≒2m×1m)』を通過すると直ぐに尾根の平坦地に出た。何段かの郭跡を通過して本丸の一段下で休憩する。4・感状山/城跡(9:37)
08年:この城跡は上郡町の白旗城跡を彷彿させる。池跡が在る城跡は現代風に言えば滞在型城と思われ圧倒的存在感が有る。赤松一族の存亡を強く肌で感じながら羅漢の里に戻った。
10.11. 6 520
08.12.10 457
93.11.29
笠ヶ城山
668.9 ③ 波賀町皆木地区の北山塊

山名からすると城跡と思うが
資料なし
09.11.28 497
蒲田城(かまた) 140.0 なし  姫路市西蒲田京見トンネルの上辺り

城跡と言う位だからその形跡が在るのではと注意深く見たが全く無し。 
06. 6.17 380 
   き

城山城(きのやま)

亀山・城山(きのやま)
485.0 ④  たつの市下野田・馬立の西山塊
亀山(城山城/赤松の城)大規模な城跡も09年には城跡記述なし。
23. 4.17 789
09. 1.25 462
01. 2.17
96. 5. 3
96. 3. 2
金山城 540.0 なし 丹波市追入

08年:譲葉山から清水山。馬頭の頭遥か彼方に高山・天狗山などを同定し、金山へ上った。ここも綺麗に整備されていた。黒井城跡(これは以前からあった)と八上城跡が見られるようになっていて同定し、周回コースで下山開始。
05年:あちこちの岩の上に立ち岩の裾を探ったりしながら高木雑木が美しい城跡に着いた。そして最高点へ立つと少し咲き始めたススキが一面を覆い尽くしていた。 15・金山540m(13:50) この日の展望は杭に書かれてもいる「黒井城跡」が譲葉山の右肩に見えているのみだった。 発(14:05)

鬼の架橋は「眼鏡橋」とも呼ばれ、岩と岩の間に大きな板状の岩が橋のようにかかっている。岩は風化に強い灰色珪岩で、自然が作り出した奇観として、安藤広重も『六十余州名所図鑑』に描いている。』とガイドマップに書いてある
08, 4.12 42
05.10.10 55
00. 6.18
98. 6. 7
霧山
「幻の氷上城址」とも
371.1 ① 氷上町市辺の北
城跡らしき形跡は見当たらず
00. 4. 1
   
倉掛山城 311.7 ③ 夢前町宮置の西(置塩城の西)

4段目が本丸跡だろう見回した広さは想像を大きく越えていた。10・△鞍掛山(11:29~11:40)一面シダが生え、広すぎて三角点石標はと見つけられそになかった。が、ブルーの札が目に入りそこに石標が在った。その札は番城山で見た札と同じで「鞍掛山 平成28年3月13日 姫路市夢前町菅生澗」と記されていた。もう一枚は『鞍掛山城 播磨国武将 赤松正満(あかまつまさみつ、生没年不詳)は、戦国時代の武将。赤松政元の長男。弟妹に政範、政直、政茂、横山儀祐、福原則尚室がいる。子は正澄。播磨国鞍掛山城主。播磨鞍掛山城を築城したと思われる(金鑵城主・中村正満と同一人物という説もある)早くから・弟政範が家督を継いでいたために架空の人物とする説や弘治から永禄年間の間に死亡したとする説がある』 この二枚は「倉掛山」でなく「鞍掛山」だった。石垣土塁は見当たらず。
2020. 4.29 727 
鞍瀬城跡     42
城山 
287.7 ④ 新宮町千本の西

その後中上りで城山に立った。名の通り城跡を想わせる僅かな石組みと可愛い一段の郭跡を見たが今までに見て来た城跡に比べると余りにも小っちゃな(狭い)面積。この事から想像するに「見張り台」か「狼煙山」程度の役目だったかも知れない。
17. 4.17 657
黒井城/保月城
(井の口山) 
356.0  ③ 春日町黒井

04年:
最後の城主「萩野(赤井)悪右衛門直正」が丹波平定を急ぐ「明智光秀」の大群の前に落城したのは天明7年8月・・等。
06年:こには「多田方面」と「本丸まで100m」の行政の道標が立っていた。分岐から直ぐの「東曲輪跡」に立つと霧のほとんどが晴れ、東に先ずは三尾山・夏栗山・黒頭峰を同定。三尾山の左に、まさに鋸の歯の様に見える鋸山連山と三岳が薄く残った霧の上に見えていた。「三の丸跡」「二の丸跡」を通過して本丸に上り切った。 5・黒井城本丸跡(10:25) おやつを食べながら展望と山座同定した。
04. 4. 3 294
06.10.28
 393
00. 4. 9 
   
鶏籠山  龍野城 218.0 なし 龍野城の北

数段の郭を通過して頂上に着く。 赤松一族によって築かれ、明応8年(1499)赤松村秀が初代の城主。道が有るのは知っていたが初めて歩く大手道を下った。今日まで何の変化も無い山肌と思っていたが削平地や郭跡(見た目はどちらがどうと判断つかない)が何段もあり驚いた。驚いたと共に『鶏籠山』に対する思い(想いが)が根本的に変わった。下り中ほどで、本丸で出会った人が後を追いけて来て「姫路城が見える所がある」と言って案内してもらった
09. 1.25  462
   
上月城 (荒神山) 作用町上月駅の南西:目高の南西
戦国時代の織田と毛利の攻防の地として、また尼子家再興に燃えた尼子氏、山中鹿介の最後の地として知られています。その起こりは、延元元年、赤松氏の流れを組む上月次郎景盛が大平山に砦を築き、後に二代目の盛忠がこの地に本拠地を移したことに始まったといわれています。
18. 7.31 679
18. 4.30 674
小谷城(こだに) 216.0 なし 加西市北条町小谷の北尾根

明確な本丸・郭・堀切跡あり。保存会により整備されている
19.10.20 713
19. 5. 3 

19. 3.31(日)木内氏と
高竜寺城(こうりゅうじ)
(高竜寺山)
214.0 なし 多加町八千代区中野間

(高竜寺池の西)ガルデン八千代
光竜寺山城には大手道と搦め手道の2本の登城道があります。ここはきれいに整備されていてハイキング感覚で山城を攻めることができます。5分ほどで登れてしまう手軽な山ではありますが、見事な堅掘が4本も掘られていて、十分に山城の醍醐味を感じることもできます。
04. 6.20

駒山城(こまやま)

生駒山)
260.0  なし 上郡町井上の北西尾根

初めに東端崖に立ち寄ってから本丸に立った。二の丸跡の南面は全開、こんなにも開けていたか・・・。かなりの本数のモミジは全ての葉を落とし地面はその葉が覆うっていた。
18. 4.22 73
14.12.12 619
13.11.17 596
河内城(こうち) 270.0 なし 加西市河内町南尾根294.7m(鞍掛山)の南ピーク

『鎌倉山2.1km 河内城址50m』数段の郭跡を経て上り切る.。ここには椅子付きのテイブルあり。2本の堀切を越えて西端まで行く瀬戸内側全開(大橋の主塔がぼやけて見える視程)。
14. 8.31 612
安積古城山(こじょうざん 555.0 ④

一宮町安積北尾根△555.0m

ほぼ横ばいの高木雑木尾根を快適に行く。明確な堀切を二本通過する。

12. 9.12 564 
古城山 601.0  なし 生野町口銀谷の北

3・別郭(9:29) かなり広い平地、立ち木の中に大きな岩が重なり合う山容に変わっていき「三の曲輪」に着く。東に白口山・岩峰・桧和田山、特に高畑山が目を惹いた。西は達磨ヶ峰からフトウガ峰だろうか水平尾根が見えた。とは言ってもかなり霞んでいて満足なものでなかった。タケニグサが茂りイバラも生えている平地を横断して短い急登で「二の曲輪」に立つ。ここからは杉によって西が塞がり始め、シダ原の先に主郭の大岩が見えた。
05. 9.18 352
02.10.20  
吼子尾山(小室城跡) 519.3 ③ 福知山市樽水と氷上郡青垣町奥塩久の県境尾根から東芦田と奥塩久・口塩久の境界尾根 

始めの急登を上りきって掘り切り一本と合計3つの郭(曲輪)を越して4段目が吼子尾山の頂。一時間近く居て去り難い頂を後にした。(14:25)南尾根にも6段の郭が在り左右の山肌は鋭く切れ落ちていた角の無い丸みのでっかい御影石が散在しその間を下ると明らかに掘り切りと思える所が在った。 
03.10. 5 275
   
篠ノ丸城跡
篠ノ丸
最上山(320m)


宍粟市山崎町門前最上山公園

篠ノ丸城(兵庫県宍粟市山崎町加生)は、貞和年間(1345-49)に赤松則村(円心)の 次男・貞範が築城したという。 嘉吉の乱(1441)で赤松氏が没落し、播磨国は山名持豊の支配となる。 応仁の乱(1467)で赤松政則が東軍(細川勝元側)に与した功により、 旧領 ...
一本松
338.0  ③
三木城を陥落させた秀吉が播磨攻めの総仕上げとして配下を派遣して攻め落とした城が篠ノ丸城です。地元では黒田官兵衛も戦いに参加したと伝えられ、後に宍粟郡を与えらた際にはこの城に居城したと推測されています。本丸跡には碑が立ち、二の郭、三の郭跡、空堀や土塁の跡が確認できます。
篠ノ丸城は、長水城(山崎町宇野)と並んで中世宍粟の領主であった宇野氏が居城した山城です。
天正8年(1580)の羽柴秀吉の播磨攻めにおいて落城し、播磨の戦国時代は終焉を迎えました。地元の伝承ではこの際黒田官兵衛も従軍したと伝えられ、後に官兵衛が宍粟郡の領主となった際には、篠ノ丸城を居城としたと推測されています。
城内で最大の面積を持つ主郭には石碑が建てられ、その他にも空堀・土塁などの遺構を見学することができます。

14.11.28同窓生
12.12. 6  572
   

中道子山城(ちゅうどうじさん)

(城山)赤松の城
271.3 ① 加古川市細工所

登頂時の城についての記述なし。米倉跡からは焼米が出たとの案内立札があった。立地条件は物凄く当地から同定できる城跡の数は放射線状に数十ある。
17.10.30 655
17.10 8
10. 6.30 510 
何回も上る
17. 1.13 654
17.10. 8
17.10.30 665
白旗城 440. ③ 上郡町細野の南東

南北朝時代の武将・赤松円心が標高440mの白旗山頂に築城し、新田義貞が率いる6万の軍勢の攻めに50日以上も耐えた難攻不落・要害堅固な山城です。平成8年3月に国史跡に指定されました。現在は近畿自然歩道が整備されており、登山コースとして観光スポットとなっています。毎年11月23日には、麓の赤松集落で「白旗城まつり」が開催されています。
02.2.16222
98.11. 2
城山  287.7 ④ 新宮町千本の西

その後中上りで城山に立った。名の通り城跡を想わせる僅かな石組みと可愛い一段の郭跡を見たが今までに見て来た城跡に比べると余りにも小っちゃな(狭い)面積。この事から想像するに「見張り台」か「狼煙山」程度の役目だったかも知れない。
17. 4.17 657
城 山 198.0 ④ 氷上町石生(城山トンネルの上)

城跡の形跡なし。
00. 4. 1
   
   
善坊山城(善坊山) 251.0 なし 加西市三口町の北

削平地は無く大きな露岩あり。攻撃防御のため竹の皮に油を塗って(滑って登れない)敷き詰めたがそれに火をつけられ逆効果だったとの話を聞いたことがある。 
99. 8.7
94.11.13
94. 2.27
   
   
鷹取城 609.9 ④ 宍粟市一宮町高取の北

福知渓谷入口の『ふれあい広場?』の高札によると『高取城 城主は田路隠岐守○純 草置城主の嫡男田路若・・・・が築城したと言われているが年代その他一切不明 城の位置は生野街道と明延街道の分れ道を十キロメートル入った所に有り安積城に対する東の守りのために築かれたのであろう 郭跡 石塁 掘割 井戸有り  宍粟郡古城誌 日本城郭全集  朝食会(私が判読の範囲)馬さんが広場隣接の住民に城跡の事を尋ねると「城跡は、目前の山で山の上に広い所が在る城跡への道はR=6尾根裾からとこの上手集落からあった城主の子孫が近くに居られ(現在家も教えてもらった)その家が現存のお寺を寄進されたの事。
09. 5. 2 472 
高峰山城(3町境界) Ca410 なし 深山の西(市川町・加西市・福崎町)

20年緩く上ると太い木が生える広場に出る。ここは城跡で本丸跡だろう。15・3町境界市川・福崎・加西市の接点。一段下ると広く長い郭跡。
13年
:確実に城跡に踏み込む。快適横ばいを行く。上りから矢竹?帯に入る。石垣は無きも段差を上ると広い平地に礎石?らしき石列を見る。更に一段上り切ると城跡の最高点に立った。
12・3町境界/城跡(12:20
20. 4. 9 722
13. 1. 9 
574

高見城山城(高見城山)
 
485.2 ④ 原町鴨野の南・丹波悠遊の森の西 

14年:亀井戸跡(10:56)黄金伝説の看板が新調されていた。『高見城の水源として掘られてものと伝えられ、わずかにその痕跡を残している』この井戸をめぐって次のような伝承歌がある『山の裾から十八町 朝日輝き 夕陽さしこむ 三葉柳の露の下 一丈五尺の井戸の底 黄金の束が七、八つ』ここで少し休憩をし発つ。祠が在る郭跡も東面が無残にも伐採されていた。
05年:上り切ると小郭で人造石の愛宕神社の小祠が東向きに祀られていた(前回も在り)。郭の中ほどに生える木に赤ビニテテープが巻かれていて、「ここから下ると界に乗って穂壷城跡へ下れるのか」と思い、本丸へ向かった。そこから3段目が本丸(頂上)
14. 9.22 613
09.12.27
09.11. 4 495
05.11.19 359
98. 9.13
段ノ城山  480.0 ④ 中区・加美区寺内の東

丘ピークを越え480.0mへの上りは草藪っぽい激上りとなる。頂上側面にH200mmW2000mmくらいの石垣を見る。13:50(15)段ノ城山480.0mこの頂は城跡だった。東面が2段で石垣3ヶ所確認する頂上の広さは15坪くらい。そして間もなく目を見張る独立巨岩が右に左に点在H4~5000mm周りは数十mこんなのが7~8個はあったと思う。(15-1)NTTdocomoのアンテナ。城跡は終わったかとおもいきや(16)このピークに石垣は確認できなかったが大規模な段状の地形を見る(3~4段)ここも城跡であった。雑木帯の中を下り(20)コルで休む。15:00目前の小ピークへ上がるとなんとここも石垣と段状の地形ありこれも城跡か……?手前のコルは掘りきりか……?
02. 7.20 236
谷城 206m なし 市川町谷の南東/振古川沿い

09年:19・谷城跡(13:51)一度見てるので本丸巻き道で通過。
07年:掘り切りや郭を通過して本丸に立った。 36・谷城跡(15:02) 遺物らしき物は一切見当たらずも予想以上に大きな(広い)本丸跡だった。甘地方面の市街を一望して下山に掛ったが南山肌にも大きな郭が2段在った。
09. 6.20 480
07.12.19 414 
高山(妙見堂跡とも城跡とも) 409m なし  山南町・柏原町界奥野々トンネルの南

0・高山(13:15)城跡(建物跡)で有る事の確率はかなり高いと思う。
13. 5.14 582
高倉山 城  427.1 ④ 新宮町能地の北

18・高倉山(13:22) 朽ちかけた祠が崩れた基壇の上に祀られていて南が完璧に切り開かれていた。眼下にふたご山と、その山裾の平野地区に自転車デポ地点も確認できた。遠望は点名市野保が座する素晴らしい稜線の上に城山と大倉山、的場山の中継塔がチラリと覗いていた。視程が良ければ海も見えるだろう。また西の端も切り開かれていて真新しいTV受信アンテナが一本立っていて遠くに光都市が見えていた。
04.12.11 326
玉置城・久下城(八幡山)  241.0 なし  山南町岡本の北

30・八幡山/玉巻城跡(14:33)このコースを決めて以来楽しみにしていた城跡に着いたが礎石どころか石さえ無く、その形跡も展望も無し。これほど城跡を感じない城跡は初めての様な気がする。
慶佐次氏の著書によると『玉置城趾(241m) 八幡山とも言う。谷川駅から、長慶寺の前を通り城趾北の鞍部を目指して登る。鞍部までは一部笹藪がきつく、駅から約40分で頂上だが展望は無い。玉置城は久下氏の城、久下時重の顕彰碑が長慶寺にある』
 10. 3.17 507
   
茶臼山
茶臼山城 
Ca160 なし 赤穂市坂越の北西

15年:『茶臼山城跡』との標柱が立ち、側面に『標高一六六mの宝珠山(茶臼山)にある。山名持豊が駐留したといわれているが詳細はわからない』と記されていた。
20年:「和田備後守範長公一族の墓所」あり。また茶臼山城跡の標識も立っている。
20.12. 2 743
15. 5. 3
 627



長水山城(ちょうずい)
長水山(ちょうずい)


長水山山頂には、室 町時代の建武3年(1336)に赤松則村(円心)の三男である赤松則祐によって築かれた長水城がありましたが、天正8年羽柴秀吉によって攻め落とされ、今 は城跡のみが残っています。石垣や古井戸が当時の面影を偲ばせてくれます。また、見通しのよい日には、播磨灘に浮かぶ家島諸島なども見えます。
584.8 ③ 山崎町片山の北東

13年:五十波からのコースが合流する。見上げると美しい石垣が見え、往時を偲びながら上る。13・長水山(11:10)「先ずは展望を」と言う事で南西の郭へ立ったが遠望は霞んで期待外れだった。98年にはここから南西尾根伝いに下り382mを通過して小学校裏に下った。最高点にある三角点を見る。保護石2個・タグ無し・展望水剣山方面。ひどく破損していた。信徳寺にお参りして昼にする。98年に住職にお城の歴史を聞いた時併せて聞いたのが驚きの話で小学生の女のお孫さんがここから通学している(通学した?)との事だった(TVの取材あり)長水山と聞くとこの事を必ず思い出す。多くの石垣が残り南北の尾根に郭跡が在る。
13. 7.17 586
98. 9.26
   

鴾ヶ堂城(つきがどう)
(三重山/みかさやま)
203.0 なし
赤穂市横山

18年:説明を受けて遊歩道で鴾ヶ堂城跡へ向った。3層の櫓は手の込んだ造りで感心した。櫓の手前に案内杭が立っていた「標高196mの三重山(みかさやま)にある赤松氏の(小田弾正が居城したと言われているが赤松関係の資料には記されておらず、謎が多い)」
18. 5. 4 675
18. 4.22 673

角尾城
角尾山(つのお)
 
343.8  ③ 西脇市八坂町の西
西脇市の西部、芳田郷(ほうたごう)を代表する秀峰で、山頂には室町期に築かれた山城の遺構である櫓台状の石垣が残っている。また、360度の眺望があり、正面には中国山地の東端となる雄大な山並みを、右手には西脇市街地を見える。岡崎町「芳田の里ふれあい館」から手軽に登山できるコースのほか、加東市の光明寺から、播磨平野や淡路島を望む、眺めの良い尾根道をたどるコースがある。
05. 1.29 330  

稲荷山城
別名  鶴居城
歴史:築城年代は定かではないが明徳年間(1390年~1394年)頃に赤松則村(円心)の孫の永良則綱によって築かれたと云われる。
城主:永良氏
 案内  鶴居中学校の北西側の山麓に墓地が見えているが、この墓地の近くに駐車場がある。登山道は南東尾根を登る道と東尾根を登る道がある。
433.0 なし 市川町鶴居

稲荷山城ともよばれる鶴居城は、標高400メートルの銀の馬車道沿線の山城。現地には曲輪や堀切、土塁が残っている。
説明:稲荷山城は鶴居駅の西に聳える標高433mの鶴居城山に築かれており、現在は登山道が整備されている。山頂の主郭を中心に南に小さな段曲輪を配した縄張りで、北尾根は堀切で遮断している。主郭の周りに石積が点々と残っている。南端の曲輪の西側面に竪堀が一条、東へ降る道沿いにも竪堀らしき地形が長く伸びているが、他の遺構の規模からして異様な長さなので林業に伴う後世の改変だうろか。
09年:数本の掘り切りと2段の郭を上ると本丸。 16・城跡(13:50)360度展望。08年:郭肩に少しながら石垣を見る。この段は長く平地が続くが後は小さな段々が続き11段目が本丸となった。 4・鶴居城跡(9:18) 本丸中心部分の立木が少し伐採されていたのは下方の整備と同じ人の手によるものだろう。展望を得るための伐採は、未だ一切無かったがその内手が入るかも知れないと思う。おそらく立て籠もり用の砦と思うが、それにしてもこれだけの急登の頂にどれ程の規模の城郭が存在していたのだろう・・・。おそらく立て籠もり用の砦と思うが、それにしてもこれだけの急登の頂にどれ程の規模の城郭が存在していたのだろう・・・。07年:堀り切り(と思う)が現れ、何本か越えて二段の急斜面(狭い範囲ながら石垣が残る)を登って頂上に着いた。 22・城跡(12:40) 広さは30坪位か・・・。展望は下ってきた方に (19) と大中山が重なって見えたが葉が茂ると展望は無くなると思う。
09.11. 7 496
08. 3.12 422 
07.12.19 414 

恒屋城


史跡指定:市指定史跡
 
 歴史  
築城年代は定かではないが恒屋氏によって築かれたと云われる。
 城主  恒屋氏
  案内  
県道409号線から城山の南側にある祐光寺の方へ入ると、道標があり、登山口と案内板がある。道は狭いが登山口に駐車場がある。
Ca230 なし 香寺町中村の東

 説明  恒屋城は恒屋川に沿って南北に伸びた標高230m程の山に築かれており、登山道が整備されている。恒屋城は北の主郭部を後城、南尾根先端を前城と呼ばれており、実際後城と前城の間はほぼ自然地形の尾根であり、横堀によって区画されている。南端の前城は最高所から南に段曲輪が続き切岸の下に畝状竪堀群を配している。北尾根側は堀切などはなく、尾根の中央を東西に分断するように土塁があるが、これは土地の境界土塁ではないだろうか。北の後城は最高所に主郭があり、それに通じる虎口がある。前城との間には大きな曲輪が一段高く築かれ、その下部をL字に横堀入れて遮断する。後城の西側面にも畝状竪堀群があるようだが、現状藪の中に埋もれていて確認は難しい。
 
20. 3. 8 720
20. 1. 5 716
19.3.31 木内氏と
    ー  

「寺前城跡・はめむろ」

寺前城
 
城山)


※地圏風土で城山は497m、風土資産マップでも(16)地点にポイントが記してある。
※風土資産マップで(14)地点の572mに「寺前城跡・はめむろ」と記してある。(17)地点はノーマークであるが合わせて城山なのだろう。
Ca470なし
 
神河町寺前の北

短急登で 14・572m(11:00) ここから東面が桧の幼木帯(視界が得られない高さ)に変わって展望は無し。風土資産マップでは「寺前城跡・はめむろ」と記して在ったがそれらしき形跡を全く感じられなかった。「はめむろ」とはこれ如何に・・・なにか謂れか物語が有るのだろうけどさっぱり分らない。先へ進む。

城跡の形跡無し・・・と思って間もなく明らかな深い堀切が出た。(11:54)そこを通過すると郭が出て、北面の一部に石垣跡が見られただけで本丸に立った。17・(11:55)30坪?位の広さでコナラ主体の高木雑木が生えて展望は無し。何時の物か10cm角の白ペンキも剥がれた杭が木に立て掛けられていた。多分「寺前城跡」と書かれていたのだろが文字の跡もわからなかった。おにぎりを食べて下山開始。 発(12:18)
05.11.13 358 






天神山城

城山) 
262.4  ③ 夢前町本条/菰生(こうも)の北

25・城山262.4m三等(15:20) 南面の雑木が切り倒されていて神種地区と中国自動車道が見えた。おそらく、ここも城跡で在ったと思うが形跡が無かった。幅広尾根を進んでいると次ピーク右山肌に斜め前方へ切り開きが在って、これを下れば麓の菰生(こうも)地区へ下るかも?上り切るとウラジロ原で北東尾根と下り尾根にに3~4段の郭が確認できた。 26・城跡(15:30) ウラジロはピーク周りだけに生えていた。マーキングもあり、下って行く。 27・(15:40 )郭の形跡は無しも石は散乱していた。
05. 3.26 335 
 
天神山城
別名:赤羽城,・志方天神山城
 
所在地 
兵庫県加古川市志方町西飯坂 
城主  赤松氏,櫛橋氏

案内  
南麓の西飯坂集落の中腹に天満宮があり、境内の西側についた石段を登ると「城主赤松氏範公塔」と刻まれた墓があり、そこから踏み跡程度の山道が付いている。
 


129
なし
歴史  築城年代は定かではないが永徳年間(1381年~1384年)に赤松氏範(氏則)によって築かれたと云われる。赤松氏範は赤松円心入道則村の四男で、他の三兄弟が北朝方となるなか、南朝方に属した。 至徳3年・元中3年(1386年)摂津国中島郡にて挙兵したが敗れて敗走し、播磨国加東郡の清水寺にて自刃した。その後、天神山浄は櫛橋氏の居城となり代々続いたが、永禄年間(1558年~1570年)の櫛橋秀則のとき、水不足から居城を船原城へと移したと云われる。
 説明  天神山城は志方八幡宮の北西に聳える標高129mの山頂に築かれており、多くの地図では天神山古墳群の表記のある山である。天神山城は南東の山頂に主郭を置き、北西方向に曲輪を連ねている。 主郭は広く削平され、西側には意味不明な列石が残る。北東下は堀切に土橋が架かり、その先に一段の曲輪がある。北西下は半円形の曲輪で周囲に土塁が巡り、北が開口して北西下の堀切に架かる土橋へと続く。土橋はいずれも垂直ではなく斜めに架かるのが特徴である。堀切を挟んで北西に続く曲輪は堀切に面して石と土塁でやや高く、曲輪は北西方向へと伸びる。途中石棺が向きだしとなった古墳がいくつか点在し、北西の尾根先までダラダラと平地が続いており、先端は堀切もなく自然傾斜で降っており、城域ははっきりとしない。主郭の北下は外側に幅広の土塁、内側は堀状の溝になり横堀状になった地形がある。 主郭の南西側は不明瞭ながら、つづら折りの登り道の両脇に段が連なっているように見える。
  
 
未踏
   
   
鳴尾山城(なきやま)
鳴尾山)
別名  野村山城
形態  山城(176m/120m)
歴史  詳細不明。野村構居の詰城と推測されており、城主は上原氏と考えられている。
Ca210 なし 西脇市板波町の西
説明 鳴尾山城は野間川が加古川に合流する地点の南西にある独立峰の鳴尾山の北端頂部に築かれている。山頂の主郭には愛宕社が祀られており、周囲には帯曲輪を配している。南東へ続く尾根は堀切で遮断し、その辺りに石積が残っている。
案内 東麓にある旭丘団地のメインストリート?に小さな御堂があり、その前に案内板が設置されている。登山道はそこから山側に行った所にあり「愛宕山神社参道」と道標が出ている。
02.10.13 244
鍋倉山城 鍋倉山) Ca320.0 なし 夢前町我孫子の西尾根先にある

先ずは「史跡 鍋倉山城跡」の案内杭を見に行く。「この城に関する資料は乏しいが戦国騒乱の余波は山之内にも及び、この山にも砦状の城を築き、鍋倉市之丞が城主を勤めた。」「鍋倉氏の亡くなったあと山崎町長水の城主広瀬氏の家臣、利瀬弾左衛門が入り、この城を守った。鞍部に本丸があり、山頂には二の丸があったといわれている。近年まで利瀬弾左衛門の塚もあった」

登山口は尾根先端より少し北に「なべくら○○○」と書いた木製のゲート。いきなりのジグザグ急登を上り切ると平地でロープのアスレチックス、木製のテーブルベンチが置かれて公園になっていた。 3・城跡(9:48) 絵看板(かなり汚れている)によるとこの先の鞍部は峠で地蔵祠、その延長尾根に展望台(昔ののろし台)が記されてあった。進行方向の山肌は3段になっていた。
06. 7.15 382 
   
   
沼 城 (沼) 266.5  ④ 青垣町・氷上町 沼の北西極低地尾根先にある

小さなコブを越えて上っていると20坪位の平地が出た。明らかに城跡かお寺の奥の院跡か・・・?と思った。そこからは朽ち掛けていたが自然木利用の階段で上っていく。???進んでいると「沼城跡」の道標が出て納得。ここは城跡だった。 28・沼/城跡(12:27~12:30)平地からは雑木林になって、最高点には特に本丸跡らしき平地は見られなかった。
06.11.18 395 
  ね
  の
野間山城 
(野間山)
Ca310~320 なし 多加町八千代区
この野間山城は尾根づたいに広がる連郭式となっており、要所要所にある石垣が実にすばらしいです。また、途中に堀切もあり、攻めるに難しい城であったことが実に見事に保存されています。
06.12. 3 396
04. 1.25 
97. 5.24 
  は
番城山/南山 214.0 ④ 夢前町置本東の東尾根/置塩城址の南

傍らの石碑には『ほきの子安地蔵 古語によると山腹の険しい所を「ほき」と云う又この付近は今でもほきの端(はな)と呼んでいる 他の説によると上の山を番城山 川向いの山を倉掛山と云い共に崖上には構があって北に聳える城山を守護していた。3・△南山/番城山/城跡(10:38)展望保護石タグなし。かなり広くうす暗い削平地だったが石組の列などは見当たらなかった。
20. 4.19 725

波賀城(はが)
城山(じょうやま)
458.0 なし  宍粟市波賀町上野

波賀城は竹下内閣?「故郷創生資金」
1億円で再建された。
櫓の在る頂は削平地は無いに等しい。因幡街道を見張る要衝だったと思われる。
09.11.21 497
  ひ 
比延山城(ひえやま)
(比延山)
287.0 ④ 西脇市比延

3・(14:09) 展望は木に遮られて良くない。西脇市教育委員会が『比延山城跡』の石標を立てていた。周囲を覗き込むが曲輪らしき地形を私は確認出来なかった。そのまま北へ向かって進むと、緩い鞍部を通過して三角点に着いた。4・(14:12)北郭の周りには、この辺りでは余り見かけない『バベ』の木が広い範囲に生えていた。地表(多分岩の上と思う)には大きな岩が残っていて、僅かな平面が有るだけだった。地形は岩盤の上と言う事で城が在った560年前あたりとなんら変化していないかも知れない・・。
04. 5.22 301     
城名不明
東 山

 459.0 なし 山南町谷川・高座神社北東ピーク(城跡

初めのコブには4段の段があり「城跡か?」二つ目コブには岸本石材採石場との案内があった。多少のうねりある削平?尾根を行く。後で此処が城跡と分かったが城跡で採石(鉄平石)してもえんかいな(ここから下山道が在れば良かったが見つけられず
16.10.27 652
  ふ
福王山砦跡 Ca380 多可町中区奥中北西295mの西・△402.4mの南

頂上手前に郭跡らしき横這い尾根がある。頂上削平地は20畳足らず石垣は見当たらず。
20.12.19 744
  へ
   ほ  --

穂壺城
 (母坪/ほつぼ)
156.5 ④ 柏原町母坪

20・穂壷城跡(14:19) 展望なし。密生ではないが胸まで位の笹が高木雑木の中に生えていた。東への尾根には見える範囲で3段の郭が在った。
05.11.19 359
98. 9.13
  ま
  み
三尾山城
(三尾山)
 
586
 なし
春日町中山の南

三つの岩頭の城跡
97. 3. 9
三草山城
(三草山)  
423.9 ② 社町山口の東 
この三草山は、よく整備された3コースの登山道で登城できます。途中にはロープやチェーンの補助も用意されており、様々な様相を見せてくれるといった趣のある山歩きができる城跡ハイキングコースです。
19 .4.29 700
09. 2. 4 463
08. 4.11 427
00. 9.23
98. 7.12

岡城 (宮山) 宍50 
514.4 ④   一宮町東市場  11. 7.15 539
02. 9.21 
   む
   
  も
森内山城森内山     651.3 ③ 加美区門村の西 08. 7.26 443
02. 3. 3
  や
城址の情報は得ていないが山の形状から城址の可能性は大きい 山崎町杉ケ瀬『山神社』の東尾根 11. 6.27 538 
山垣城(やまがい) 235.0 なし 青垣町山垣の北東・福知山市
福知山市小牧・下戸と氷上郡青垣町山垣(やまがい)との府県境界
04. 4.10 295
矢筈山
(矢筈山)
363.3 ③ 西脇市高田井町の西 20 . 5. 2 728
15. 4. 3 625
12. 4.16 554
  ゆ
  よ
  ら
   
利神山城 (利神山) 373.3 ④  佐用町平福の東 
利神城跡(石垣群、山麓の御前屋敷石垣跡)が、平成29年10月13日国の史跡に指定されました。利神城は貞和5年、赤松一族の別所敦範が利神山頂に城を築いたことに始まったといわれています。慶長5年関ヶ原の戦いの跡、池田輝政の甥・池田出羽守由之が2万千石で領主となりました。3層の天守は、あたかも雲を突くが如き威容から雲突城とも呼ばれました。
石垣や登山道での崩落の危険があるため、城跡までの登城は差し控えていただいております。
08. 6. 4 438
03. 3.16 257 
   
  れ
   

令和2年5月28日現在71城