789 亀山(きのやま)/城山城跡(きのやまじょう)  (約 8.0km)


この山塊、未踏コース数本あり「大手道コース(馬立)〜搦め手谷コース」を計画自宅発。

新宮町には入りそろそろと思っていると「城山城跡登山道方面」の道標目には入り計画違えて進入す。

こんなコースが在ったのか・・・歩いて見れば・・・大満足の歩きに感謝。




◎所在地 : たつの市新宮町下野田・馬立の西山塊(城山城跡)

◎地形図 : 『龍野(たつの)』 

◎山行日 : 2023.4.17(月)  晴れ  Age=76

◎参  考 :  96. 3. 2  A96. 5. 3  B01. 2.17  C 09. 1.25 462

◎山行者 : 単独

◎コースの見所など : @兵糧コースの環境  A展望所からの大展望  

               B城山城跡の数々の遺物

◎走行距離 : 往路 @43.0km   往復 87.9km



1・新宮町下野田亀山会館〜2・城山城(きのやまじょう)登山口(兵糧道コース)〜

3・尾根(近畿自然歩道/山陽自然歩道・三基墓〜礎石建物跡〜4・大展望所(昼)〜

西ピーク経由〜3・三基墓〜5・亀山〜石塁C/堀切(城内最大)〜引き返し〜

△亀山(457.8m四等)〜築石(つきいし)〜引き返し〜堀切と土塁通過〜

亀の池・奥宮分岐〜供養碑〜祇園嶽・馬立分岐〜馬立古墳群/山里公園/山神社〜徒歩〜

1・新宮町下野田亀山会館P


自宅発(9:18)〜明姫幹線〜太子BP福田LP(10:00)〜1・新宮町下野田亀山会館(10:17〜10:28)〜

2・登山口(10:37)〜3・三基墓(11:52)〜礎石建物跡(11:56)〜4・展望所(11:58 昼 12:50)〜

3・三基墓(13:00)〜〜5・亀山(13:10)〜最大堀切(13:20)〜引き返し〜6・△亀山(13:37)〜

門の築石(13:42)〜引き返し〜堀切と土塁通過〜7・亀の池・奥宮分岐(14:15)〜

8・祇園嶽・馬立分岐(14:17)〜古墳群通過(14:46)〜9・馬立古墳群/山里公園/山神社(14:51〜

14:56)〜山根川に沿って南下〜10・はっちょう塚古墳群探索(15:11)〜11・突き当り(15:20)〜

1・亀山会館(15:44)〜往路〜買い物〜自宅(17:30)



馬立から城山城跡へのコースが気になり歩くことにしたがどのコースと繋げて周回するか思案した。その結果、新宮町市野保地区から上る「搦手谷コース」と繋ぐことにした。馬立登山口へ向っていると馬立手前で「城山城跡登山道方向」と「城山城兵糧道・興聖寺」の新しい案内がありUターンしてそこへ入って行った。1・新宮町下野田亀山会館(10:17〜10:28)「城山城跡登山者駐車場」の看板に沿って館前の広場にP、館の中から「100歳体操」音楽が聞こえた。

 

1番 亀山会館Pへの案内 10:16          城跡の山を背に車を駐車 10:17



城山城跡を見上げながら支度をすます。館から登山口へ進む案内が無く迷ったが取りあえず山の方へ向かった(この時点では馬立の登山口へ行くと思っていた)。間もなく川(栗栖川)の土手に出た。左右を見ると左の橋に幟が立っていて登山口への目印となった。その旗は館にも立っていて「西播磨の山城へGO」と書かれている。川の中州には菜の花(カラシナ?)が一面に咲いてきれいだった。橋を渡ると行政の城山城周辺案内板あり。
2・登山口(10:37)

 
この橋を渡ると登山口が在る。10:34        登山口に立つ詳細地図 10:38
 
左へ「興聖寺」右「城山城跡登山道」地図に番号が入りその地点15か所の絵(写真)が紹介されていた。その隣には城跡周辺のコース全てが詳細に記され細かく歩行時間が記されていた。ここからの道は「兵糧道コース」となっていた。車止め鎖を通過し林道を緩く上って橋を渡ると城山城に関する案内板と城山城遺構配置図が立っていた。

看板(10:40)
『城山城は室町時代の初めの播磨・備前・美作の守護だった赤松則祐が文和元年(1352)頃から20年以上の歳月をかけて築いた山城です。「教王護国寺文書」・東寺百合文書」に築城についての記事があり、付近の荘園から人夫が徴発されたことがわかります。則祐の後、城主は義則、満祐、義雅と移り変わり、義雅の時に「嘉吉の乱」(1441年)がおこりました。

「嘉吉の乱」で足利六代将軍義教を謀殺した赤松満祐(播磨守護)は追い打ち軍に攻められ、城山城で自刃し、赤松氏は一時衰退します。赤松氏の衰退とともに城山城は約百年間廃城となり、その後出雲から播磨に侵攻してきた尼子晴久が天文七年(1538)から九年(1540)まで城山城を使用しました。

現在城山の山上には郭・空堀・土塁等の城の遺構が残っており、城内からは中国製陶磁器や、備前焼が採集されています。中世の多くの山城が謎に包まれているなか、城山城は築城の過程や廃絶年代が比較的よくわかり、全国的にみても貴重な文化財といえます。昭和62年3月31日 新宮町教育委員会 龍野ロータリークラブ
 

ここにも詳細な地図看板あり。「的場山 120分 つつじ尾根 亀山65分」の案内あり。林道の獣除けゲート通過する。植林帯を上ると分岐あり、左は砂防ダムへ右城山城へ1.3km右側がヤブツバキの群生になる。林道は終わり間もなく橋を渡り谷筋の左へ移る(10:54)。所々小さな滝や滑流しが現れ道はガレになる。次第に急になる道はかなり踏み込まれているが自然の趣は十分味わえる。二つ目の橋で右へ移る。往時の石段なのかそれが残っている。

 
植林帯を抜ける 10:47                 初めの橋から先の様子 10:54

細流は細り水音が小さくなる。三本目の橋で左へ移り細流はから離れる事になる。源頭を見たいと思ったが谷筋は崖で上れない。左山肌には寅ロ-プ設置で「コメツツジ」の群生が続く。初めて下方が見えると横ばいになり、軽岩場にな上ると「見張り岩」との杭が立っていた。
見張り岩(11:27)岩の上から上って来た谷筋から遠望がきく。右下に水音が始まり間もなくそれに接近して上る。山の東面は「天然の要塞」と思う程の急斜面だった。

 
滑滝もある 11:02                    「見張り岩」からの眺め 11:27

 
見張り岩からの谷筋 11:28              3番に着く道標が沢山立っている 11:49

「見張り岩」からは緩い上りで太い植林帯に入ると分岐道標あり(道標あるも判読不可)。左は「新龍アルプス・つつじ尾根コース・山陽自然歩道(地図名称)」と思う。右へ進む。道は右山肌を上るが源頭見たくて谷筋を歩き源頭確認、その後もそのまま進み記憶ある所に出た。
3・三基墓(11:52)近畿自然歩道の道標「的場山2.5km・奥宮神社(井関三神社)1.9km」「的場山・石塁1・礎石建物跡」「眺めが最高!気分は城主・展望所約100m」「礎石建物跡・下野田登山道」道標だらけ。三基の石仏の

 
展望所への案内 11:50                三基の石仏・南から 11:52

看板
『城山城 城山城は標高四五八メートルの山上に位置する山城で、奈良時代の古代山城と室町時代の中世山城が同じ場所に立地しています。古代山城の遺構は主に西斜面に残っており、石塁(a~d)や「門の築石」と呼ばれる門礎等があります。中でも石塁Cは全長四一メートル・高さ3メートルの規模をもち当山城の石塁としては最大です。また「門の築石」は唐居敷と呼ばれる形式のもので、同形のものが日本では山口県の古代山城「石城山神籠石」にあるだけです。

十四世紀の中頃、播磨国守護赤松則祐は播磨支配の拠点とするため大規模な山城を当地に築きますが、嘉吉の乱(一四四一年)で赤松満祐が幕府軍に攻められ当地で自害し、城山城も落城します。城山城には、この時の遺構(郭・堀切等)が多数残っており、当時使用していた遺物も出土しています。城山城は唯一の古代山城として、播磨屈指の中世山城として大変貴重な遺跡といえます。 平成六年三月 新宮町観光協会』


この辺一帯は植林で窪地で本当の源頭かも知れない。以前は無かった「眺めが最高!気分は城主・展望所」へ向った。尾根を回り込むと礎石跡が在り礎石が等間隔に残っていた。礎石建物跡礎石建物跡(11:56)


礎石建物跡の看板 11:56 

看板
『この右側には庇を持つ総柱建物(5×7間)の礎石が残っており、南側中央部の斜面には石段の痕跡も見られる。城山城の築城に関する古文書(教王護国寺文書)には、本堂が築かれたことが記されており、当遺構がこの本堂にあたる可能性が高い。なお当以降には、巨大な石材が礎石に用いられているので、古代山城の倉庫の礎石が転用された可能性が高い 本堂推定復元図 作図:木内忠則』

此処は記憶あるがこのすぐ先の展望所は近年新設されたと思う。
4・展望所(11:58 昼 12:50)令和3年3月作製の赤外線?で空撮した地形看板が2枚設置、例の幟が10本くらい立ち、風にはためいていた(破れているのもあり)。国指定史跡だと現状変更許可が出ないと思うが町の史跡だからか削平(50坪?)され視界を遮る太い杉とコナラの木が伐採され素晴らしい展望ができた。が何時も感じる事で「ここまでの伐採が必要なのか・・・」

 
4番 展望所の看板 11:59               4番 展望所削平地・南から 12:01

 
展望所から「的場山」を眺める 12:02        展望所から上って来た谷筋 12:02

写真による山座同定案内板も立っていた。伐採された木の多くはその場に残され一部は腰掛に利用され、それに座って昼にした。帰路は「何か在るかも」と北のピークに上ったが何も無かった。
3・三基墓(13:00)これまでとは違う初めての逆周りで亀山や堀切や築石を目指した。左にピークを見ながら植林帯をゆる上り横這いで左へ巻いて行く。5・亀山(13:10)

 
3番から5版へ向かう道 13:09             5番の道標 13:10

道標板「石塁2 堀切(城内最大)」「下野田登山道 亀山頂上」道標杭「城山城主郭 石塁C 0.2km」赤いテープの案内はピーク右下に巻いてあったがピーク経由で堀切へ向かう。右の谷に
上記石塁C「中でも石塁Cは全長四一メートル・高さ3メートルの規模をもち当山城の石塁としては最大です」を見る。最大堀切(13:20)を通過、尾根が先へ続いていたのでしばらく進んで引き返した(大倉山が見えた)。5・亀山(13:34)

 
堀切は個の右に在る 13:22              先塁Cの石垣 13:24(引き返しに撮る)

分岐から僅かな時間で三角点に着いた。
6・△亀山(13:37)△石標無傷、保護石・タグなし。杭「亀山(城山)標高四五八メートル」道標杭「門の築石(つきいし)」案内板「下野田登山道」「馬立登山道」「城の山城跡10分 築石5分 亀の池25分 祇園嶽55分」。「門の築石」へ向かう。灌木に巻かれた赤いテープ導かれ進む。意外と長く感じつつ一つ目の築石に着いた。門の築石(13:42)

 
一つ目の「築石」 13:43                 二つ目の築石 13:44

看板『門の築石 この付近には、古代山城の門の礎石が3基ある。凹字状の石材(2期)と中央に段差を持つ石材(1基)である。凹状の石材は、唐居敷(からいしき)と呼ばれる構造のもので、外側に約60cm角の掘立柱が設置され、その内側に約30cm角の柱が礎石の上に据えられ扉が取りつけられる。

扉は、各礎石が持つ段差により外側に開かないよう工夫されており、内開きであったことが分かる。門の幅は約2.7、mあり、古代山城の石城山神籠石[いわきさんこうごいし](山口県光市)にも沓石(くついし)と呼ばれる同じ構造の門の礎石がある。この説明の横に「城門推定復元図」が描かれてあり「木内忠則』

とある。この築石と同じ(対)礎石を見に進むと左の谷に石垣が在る築石が在る尾根は延びており歩けそうだったが引き返す(後で現地地図を拡大すると亀池へと繋がっていた)。6・△亀山(14:00)三角点からすぐ先に「堀切と土塁」の看板あり

『堀切と土塁 この左側には、二重の堀切と土塁がある。北側の堀切は尾根を切断して、敵の侵入防いでいる。南側の堀切は、土塁と共に山腹を西方へ伸び、山頂の郭を防御する横堀の役割もはたしている。この堀は、掘りないが土塁で区画された特殊な構造しており、篠の丸城(宍粟市山崎町)にも類似がある。堀切などの推定図が描かれていた。作図:木内忠則』

 
展望所への横ばい道 14:07             展望所からの眺め 14:08

これらは確認せず進む。逆走と言う事もあり記憶に残らない道を歩く。
展望所に着く(14:08)ここにも詳細な地図板が立っていた。「しんぐう荘」やその上方遠くに明神山が尖って見えた。ここから真砂土の急下りになる。その後ほぼ横ばいになり左雑木林からカエルの鳴き声、大合唱が聞えて来た。7・亀の池・奥宮分岐(14:15)横這いで供養碑前通過間もなく馬立へ下る分岐あり。8・祇園嶽・馬立分岐(14:17)

 
7番 分岐に建つ「供養岩」 14:16          馬立へ下り始め 14:17

 
下り序盤にある唯一の展望所 14:21        左展望所の下方 14:25

馬立へは初めての道、急下りでトラロープ設置、間もなく岩場あり岩頭から大展望、少し戻って尾根左に下って行く。すると普段着姿で上って来る男性(30歳位)あり「一人なのでお気を付けて」。予想通りの急下りが続く「金山跡」に寄りたいと注意していたが案内を見落としたのか通過してしまった。雑木林に入り傾斜が緩くなると右の谷からから水音がして来た。

 
細流を渡る 14:39                    22号古墳 14:47


 
ポッコリ小山二つも古墳 14:50            9番辺りの「山神社」・南から 14:51

間もなく異様な山肌、ポッコリポッコリ古墳ではないかと近ずくと古墳だった。「21号古墳(この古墳の入口は珍しく東向いていた)」古墳は群をなし点在していた。
古墳群通過(14:46)古墳群の中を通過して麓に出ると左方に小振りの神社「山神社」が在った。そこから緩く下って行くと馬立登山口の案内看板があり地図やら古墳群の説明板が立っていた。下って来たコースは「大手道コース」9・馬立古墳群/山里公園/山神社(14:51〜14:56)

 
9番 登山口の案内所 14:54             山根橋渡り振り返る・車の所は私有地 14:56

看板
『馬立古墳群 馬立古墳群は新宮町を代表する古墳群の一つで、この谷底平野一帯には32基の古墳がほぼ完全な状態で残っています。この古墳群は6世紀後半から7世紀にかけて当時の農民の作った墳墓であると言われています。巨石を巧みに積みあげた玄室と呼ばれる埋葬のための部屋と、通路にあたる羨道からできていて、埋葬がおわると羨道の入口は石を積みあげてふさいでいます。

これを閉塞装置と言いますが、再び死者がでたときは、この装置を外して横から出入りが可能なので、このような古墳は横穴式石室古墳と呼ばれています。この時代の古墳には、死者があの世(黄泉の国)で生活に困らないように多数の品々を埋納することが特徴です。町内の古墳からも、須恵器と呼ばれる焼き物や、馬具、武器類、首飾り、金メッキをした耳飾りなどが出土した、当時の生活や埋葬の様子がわかります。

北側の山神神社の近くの尾根の先端には、姥塚
(随分以前に見た事がありそれはそれは凄い石組だった記憶が有る)と呼ばれるひときわ大きな古墳がありますが、これは当古墳群の中心的存在で、おそらく村長(むらおさ)と呼ばれる村の有力者が葬られていると思われます。この古墳は石室の平面が方形で、壁面は天井に近ずくにつれて次第に内側にせり出しドーム形をしています。

こういった石室は穹窿(きゅくりゅうる?)式石室、渡来人の墓ではないかと言う人もあります。当古墳んからは、子持ち壷など須恵器や玉類の出土が知られています。なお、馬立にはこの南側の山麓沿いに、さらに6基、8基、19基の支群があり、計65基の古墳が確認されています。』

墓場を通過して山根川を渡る。川に沿って南下すると兵糧道コース登山口の橋に着けると思いなんかした。途中で「はっちょう塚古墳群」の道標があり矢印は対岸を指していた。橋は無かったが渡れる所が有り、塚を目指し、二本目の道標にたどり着いたがそれらしきところも見当たらず疲れもあり引き返した(祠は在った)。

 
10番 「はっちょう塚古墳群」の道標 15:11   「栗栖橋」から下った「大手道コース(中央谷筋)」を眺める 15:27

引き返しさらに進んで獣除けのゲート通過、そこから先は軽いヤブになるも目的の橋は見えていたので進むと水量多い幅の広い川に突き当り万事休す。
11・突き当り(15:20)歩いた所は川の中州のようだった。地図で確認しなかったから・・・反省しながら引き返しは獣除け柵に沿って広い川に沿い逆戻り、その川は「栗栖川」でその川の橋を渡って公民館に戻った。1・亀山会館(15:44)

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4・展望所