786  三農山 (約14.0km?)


約束の牡蠣を買う前一歩き「楽だった山(上野)」と言う事で選んだ山は『三濃山』私も納得歩いて見れば

緩い上り短い距離も歳を重ねて意外に苦戦。



◎所在地 : 相生市矢野町瓜生・森地区の北山塊

◎地形図 : 『二木(ふたつぎ)』

◎山行日 : 2023.2.7 (火)  曇り  Age=75

◎参  考 :  @93.11.29  A95.11.23   B01. 2. 4   C08.12.10 457

           D10.11. 6 520   E11.10. 7 541
  F17.11.13 666

◎山行者 : 大西(車)・田中・上野・西村・大柿

◎コースの見所など : @前半は細流に沿っての谷道と冬枯れに癒される  

                A三濃山南面山肌は芝肌で長閑

◎走行距離 : 大西車のため不明



研修センター〜砂防ダム〜4・三濃越え〜正面谷池〜神社〜三濃山 (往復)



古田発(9:00)〜明姫R〜姫路BP〜たつの市〜R=5〜真広交右折〜コンビニ〜羅漢の里〜

1・研修センターP(10:10〜10:20)〜砂防ダム〜盃流し(10:45)〜

2・三濃別れ(11:04)〜3・正面谷池(11:40)〜4・神社(12:19)〜

5・三濃山(12:28 昼 12:48)〜往路引き返し〜

三濃越え(13:44)〜1・研修センターP(14:20〜14:25)〜

相生道の駅/ペーロン(牡蠣を買う・4kg)〜R2復路〜ロイヤル(炭など買う)〜

コスモス(飲み物など買う)〜古田(16:17)〜牡蠣BQ〜解散(19:30)


12月6日天下台山に上っての帰りに室津で牡蠣を買って大西宅車庫でBQ。その時の約束「年明けにもう一度牡蠣を食べよう」で、その日が今日になった。上野さんリクエストで楽だった三濃山に上ってから牡蠣を買いに行くことになる。出足を9時にしたので渋滞する中地LPもスイスイ走れ、太子BP福田で下りる。龍野からお気に入りの県道R5を走る。途中から小雨が振り始める。真広交差点近くのセブンでおやつを買って研修センターに着く。1・研修センターP(10:10〜10:20)

 
1番 研修センターP奥が登山口 10:18       10:26 

雨は止んでいた。「三濃山登山道」 「山頂まで3.9q」の道標あり。登山口近くのログハウスにシートが張られ重機が置いてあり、建て替えか修繕をしていると思う。コンクリート舗装路に積った落ち葉は雨に濡れしっとり、それを踏みながら上る。「げんこつ石」横通過、砂防ダム通過。間もなく「盃流し」「山頂まで2.9km」(10:45)道の右を流れる渓流の川床は岩盤。次は「渓流釣りの道」「山頂まで2.5km」(10:54)なかなか着かない」と思っていた三濃別れに着く。2・三農別れ(11:04)

 
盃流しの川床 10:46                   2番 三濃別れ・右へ三濃山 左へ金出地 11:04

上郡町金出地(かなじ)へ抜ける道はどうなっているのか気になる。ここで舗装路は終わる。バリケードに車両進入禁止の看板がかかる。渓流と言えるのはここまで、コブシ大の石がゴロゴロの道になる。間もなく上方で上野さんが岩に腰かけ休んでいた。揃って休みおやつを食べる。立木が疎らな所には雪が残っていた。大西さんは何時も通り先行して姿は見えない。先が開けて「頂上か・・・」「まだまだ」〔正面谷池〕に着く。3・正面谷池(11:40)

 
3・正面谷池 11:40                    11:42

 
倒木が道を塞ぐ 11:53                  能下からの道と合流点看板 14:16

水面ほぼ全面氷が張っていた。池を左に巻いてからの快適だった道は多くの倒木が道を塞いでいた。すばらしいハイキングコースなのに整備に手が回らないようだ。能下からの道と合流点に本格的な看板が新設されていた。
(14:16)感状山への案内(矢印)は能下方面へ下るようになっていた?私の記憶では現在地から直に尾根に入ったはず。確かめるため能下の方に下り尾根入口辺りまで下ったが目に付く案内が無く引き返した。今思えばもう少し探しておけば良かった。

 
元三濃山求福教寺 12:18               観音堂 12:21

 
観音堂から三濃山 12:22                5番 三濃山・△石標は後の最高点 12:29


三濃山から瀬戸内海方面 12:40

4・神社(12:19) 『三濃山求福教寺(相生市矢野町三濃山) 三濃山求福教寺は、伝承によると、弘法大師が平安時代の大同年間(八〇八〜九)に一伽藍を建立し、真言の法窟としたといわれ、また「峰相記」では貞観六年(八六四)に赤穂群の長菅であった秦造内麿呂(はたのみやつこうちまろ)が秦河勝の遺跡を訪ね、冥福を祈って観音寺を建立したと伝えられています。また平安末期には源義が堂宇を再建し、

三濃千坊の隆盛をみたが、保元・平治の乱で焼失して本堂だけ残り、三濃山観音寺として法燈が守られてきたと伝えられています。本堂の周辺には、往時の寺の礎石や五輪塔が残され、境内には大避神社と弁才天社が祀られています。 相生市教育委員会』


大西さんはここが頂上かと思い後続を待っていたが頂上は更に上と分かり揃って上った。求福寺教寺周囲は一面雪が残っていた。
5・三濃山(12:28 昼 12:48)天下台山は確認できたが「海」は霞んでいた。赤樫は絶えていなかったが姿は小さくなり何とか生き残っていた。往路引き返す。三濃別れ(13:44)〜1・研修センターP(14:20〜14:25)ペーロン城で牡蠣を買って大西宅車庫で隣の吉村さんも加わり焼いて食べて飲んで片付け終了19時30分解散した。
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3・正面谷池

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