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792 亀山(きのやま)/城山城(きのやまじょう)〜祇園嶽 (約 11.0km)
あの詳細な地図を見て(4/17789)今度の歩きはここと決める。
天気と気力見極めて歩いて見れば、緑も深く小鳥のさえずり水音も心に響く爽やかコース。
古き歴史も存分味わい祇園嶽から大展望
◎所在地 : たつの市新宮町市野保西谷筋から亀の池・亀山の山塊。
◎地形図 : 『龍野(たつの)』
◎山行日 : 2023.6.4(日) 晴れ Age=76
◎参 考 : @96.3.2 A96.5.3 B01.2.17195
C 09.1.25 462 D23.4.17 (月)789
的場山〜城山〜大成池〜近畿自然歩道〜相生市釜出地区〜相生市瓜生地区〜 小河地区〜小野豆地区〜〜広根地区。 (松谷・若月・森田・大柿L) (スタートから広根まで近畿自然歩道でつながっている) 新宮町佐野地区佐野橋P(発8:36)〜両見坂峠〜 的場山394.2m三等(パンク修理)〜佐野382.7m〜城山458.0m四等〜 大成池〜近畿自然歩道〜相生市釜出地区〜瓜生地区(12:06 パンク修理&昼食)〜 小河地区〜小野豆地区〜上郡町広根地区(14:06)〜R=28〜R=5〜 新宮町佐野地区佐野橋P(15:56)。 |
MTB・晴れ ’96.5.3 (木) MTB中間 『龍野(たつの)』 『二木(ふたつぎ)』 |
的場山〜城山〜大成池〜近畿自然歩道〜相生市釜出地区。 揖保川河川敷P(発9:13)〜両見坂峠(9:36)〜鶏籠山(城跡)218m(9:50〜10:05)〜両見坂峠(10:11)〜山陽自然歩道〜的場山394.2m三等(10:46〜10:51)〜佐野382.7m(11:10)〜供養塔(11:54)〜石塁散策(門の礎石12:19)〜城山458.0m四等〜亀岩(12:34)〜亀の池(12:37)〜新池(13:02)〜大成池(13:15)〜山陽自然歩道(林道)〜山陽自然歩道「釜出地区」入り口(13:45)〜相生市釜出地区(14:00)〜真広交(R=5)〜龍野散策〜揖保川河川敷P(15:45)。 城山城跡に残る門の礎石(≒1.5×2.0m) ![]() |
MTB・くもり ’96.3.2 (土) 単独 『龍野(たつの)』 『二木(ふたつぎ)』 |
◎山行者 : 単独
◎コースの見所など : @越部神社と力石 A市野保古墳群・市野保裏山古墳群
B井関三神社奥宮 C水争いの遺称地 D城山城跡の数々の遺物
D祇園嶽から大展望
E全体を通して良いコース・黄葉に時期は特に良いと思う
◎走行距離 : 往路 @41.8km 往復 83.7km
越部神社P〜搦手谷コース〜祇園嶽分岐〜新池・亀の池分岐〜池巡りコース〜井関三神社奥宮〜
水争いの遺称地〜亀の池〜中垣内(なかがいち)分岐〜門の築石(つきいし)〜石塁-2〜
△亀山(457.8m四等)〜亀の池分岐(亀岩・蛙岩)〜供養碑〜馬立分岐〜
祇園嶽/△祇園山(340.19m三等)〜水布弥(みずふね)コース〜
てんかさん〜越部神社P
23年4月17日この山域を歩いた時に見た詳細なコース地図を見て、今日のコースを歩くことにした。土地勘は有ったが未知の所も有るので楽しみだった。城山城山並みの右端に異様に出っ張った岩頭「祇園嶽」を眺めながら走る。県道724から市野保への入口に茶色に塗られた鉄板の看板あり『城山城搦手・てんかさん・市野保古墳群・越部廃寺・越部八幡神社』1・越部神社(9:25〜9:35)
市野保集落と祇園嶽(尖り山) 9:23 1番 越部神社 9:37
境内の看板『当社から南に広がる越部地区は、平安時代には越部荘と呼ばれる荘園で、歌人として有名な藤原俊成・定家の所領でもありました。越部八幡神社は、越部荘の鎮守として承平2年(932)に播磨国司の藤原村雄が勧請して創建したと伝えられています。祭神は、仲哀天皇・応神天王・神功皇后で、境内神社として大神社・稲荷神社・松尾神社・建速神社・水布祢神社・天満神社・山神社を合祀しています。
当社には、大永6年(1526)の遷宮札や天文21年(1552)の御頭次第札など町内では数少ない中世資料が所蔵されており、参道脇には町内で唯一の江戸時代の力石:天保4年(1833)があります。また社殿背後の尾根には町内2例しかない前方後円墳の内1基(市野保裏山1号古墳)があります。現在の氏子は市野保・段之上・井野原の三カ村で、秋祭りには井野原村より獅子舞が奉納されます。
なお、当社南方の山麓には、藤原定家の姪で女流歌人として名高い越部禅尼(俊成卿の女)の墓所と伝えられる石仏を安置した祠があり、地元では、「てんかさん」と呼ばれています。平成22年3月 新宮町教育委員会・新宮町観光協会』
鳥居の脇に俵の形をした六個の石が並び置かれ『町内最古の力石・天保四巳年(一八三三)、四拾貫、治三郎、太蔵銘文あり。』力石は祭りの時などに肩まで担ぎ上げ更にそれを操って競ったのだろ。搦手谷コースは数回歩いているので難なく乗れたが初めてだと乗るまで少し分かり難いかも知れない。集落を抜けると木立の中の林道を歩く。ウグイスのさえずりが絶えず聞える。間もなく墓地手前に看板あり。2・看板/大谷池(9:44)
鳥居近くの力石置き場 9:39 2番 大谷池と看板 9:44
『市野保古墳群・市野保裏山古墳群 市野保村北側の山麓から尾根にかけて、89基の古墳(市野保古墳群:83基・市野保裏山古墳群:6基)が現在発見されています。これらの古墳は今から約1400〜1600年前の古墳時代に造られたもので、円墳・方墳・前方後円墳等の墳形が見られます。大半が古墳時代後期の横穴式石室をもつ円墳で、石室内に箱式石棺が残っているものもあります。
当古墳群は西播磨地域では最大級の古墳群で、非常に保存状態も良く、歴史的に見ても大変貴重な資料といえます。なお、古墳中唯一の前方後円墳の市野保裏山一号墳(全長約30m)は、古墳時代前期の前方後円墳で、町内では吉島古墳に続く首長の墓と考えられています。』看板の後ろにある大谷池は護岸工事が無く趣がある。
墓地を通過して間もなく『越部古道P(数台分)』新設P(9:48)山裾に見えていた古墳は草木が繁り見えず、それらへの案内も見当たらず。大きな砂防ダム(9:56)。このダムの辺りでは「カジカガエル」の鳴き声を聞いた。二つ目P(9:58)この辺りから上りがややきつくなる。分岐は左の広い道を歩く。
新設看板あり『唐猫谷の礎石 このあたりの地名は、唐猫谷(からねこだに)と呼ばれており城山城の搦手に由来するものと考えられています。唐猫谷の登山道の傍らには、円形の穴が穿(うが)たれた礎石があります。いつ誰が設置したものか不明ですが、搦手を守る城門の礎石であった可能性もあります。』『鉄製角杭道標(古い)『城山城・門の礎石』
唐猫谷の礎石案内板 10:10 同所の礎石 10:10
約70センチ角で厚みは50センチ位の石に径20センチ深さ10センチの穴が掘られていた。門にしては余りにも小さすぎるし対で無いのも気になる。左の谷からはかなり大きい水音が続く。3・祇園嶽分岐(10:15)左に砂防ダムあり。鉄角道標『祇園嶽・出城0.9km 亀池1.9km』新設道標『祇園嶽・城山城方面』。簡素な東屋あり。
案内板『祇園嶽城・城山城登山道案内板 龍野市連合自治会新宮支部 令和2年12月』この案内版には@新池 A唐猫谷の礎石B水争いの遺称地C奥宮D亀の池E亀岩F蛙岩G供養碑H猿顔岩I祇園嶽J越部八幡神社KてんかさんLお玉の清水(きよみず)M姥塚古墳N観音岩の写真がこの番号で地図のコースに転記されていた。
3番 祇園嶽分岐 10:14 同所案内板
祇園嶽への道はダム内側の細流を渡って上っていたがヤブっぽかった(以前歩いた時の記憶では少しの間と思う、)今日はここを通過し谷筋を上る。水音が相変わらず大きいのは近日の雨の影響だろう。分岐(10:19)左谷筋へほぼ水平で踏み跡と言うか新設の道が付いていた(祇園嶽への新しい道か?)。大きな茶色鉄板道標『城山城』は右への矢印で林道を上る。左谷筋は切れ落ちている。
間もなく水平になり谷を渡るが水嵩を低くするため川底の小石を除くなどして遊ぶ(水が流れやすくする)少しうっとうしくなる。4・新池・亀の池分岐(10:33)新設道標『寺床・新池 市野保集落』 『城山城・亀の池』鉄角道標『寺床池1km 市野保(搦手)2.3km』 白地鉄板道標『市野保50分 亀の池25分 新池35分』 大きな茶色鉄板道標『城山城・亀池』右へ新池(広い道)へも歩きたかったが亀の池へ入る。
4番 新池・亀の池分岐(ロープが入口) 10:33 同所道標
4播から5番への道 10:45 同 10:48
亀の池へはいきなり急登でトラロープが出る。途中から僅かな水が流れる。傾斜が緩くなるとメインルートに出た。5・池巡りコース(10:53)白地鉄板道標『市野保60分 亀の池15分 新池15分 中垣内45分』 近畿自然歩道『奥宮神社(井関三神社)0.1km 新池0.7km』 新設道標『市野保・搦手谷』『新池・大成池』『亀の池・城山』ここから南へ下る新池へのコースは分かり難いとの案内あり。
5番 メインコースの道標 5番から6番へ向かう 10:56
井関神社へ向かう、道はよく踏み込まれている。6・井関三神社奥宮分岐(10:59)鉄角『亀池0.4km 井関神社・奥宮50m』 新設『新池0.8km 城山城1.9km』緩く丘を越える。井関三神社奥宮(11:01〜11:17)高6m位の大きい立岩の南裾に祠が安置されている。『奥宮の由来について 御祭神 武甕槌神(たけみかづちのかみ) 最初この亀の山の地に崇神天皇二年に勅命により天照国彦火明櫛玉饒速日神が御鎮座になられたのが始まりで室町時代に赤松氏の勧請により武甕槌神を合祀したのである。
井関神社に着く 11:01 井関神社 西より写す 11:17
それ以後徳川時代の初期に武甕槌神をこのところに従前どおり奉斎して最初に祀られた御祭神を現在の揖西町中垣内内字井関に奉遷して井関神社と称し一方この地に祭祀の御祭神を奥宮大神と崇め奉って今日に至っている。』
看板『御当社は神道の神社です。大神様に御平安にお鎮まりいただくため、御神域の浄謐護持にご留意ください。佛教その他の宗教、スピリチュアルなど神道以外の作法での参拝、または読経、液体・物体の散布、御祭神・御当社と無関係な宗教に類する行為は、お断り致します。 宗教法人井關三神社 社務所』
戒めはしっかり伝達されているが清掃、お祀りは・・・。元の分岐に戻って亀の池方面へ進む。7・水争いの遺称地(11:19)看板『水争い遺称地 「播磨風土記」には、石龍比古命と石龍比賣命の兄妹の神の水争いが記されています。この話は、中垣内川上流の村と越部村の人々の間で起こった水争いの様子をたとえたものです。亀の池から流れ出た水は2つの谷へと分かれますが、その勾配の違いから越部の村へ多く流れるため、中垣内川上流の村人がそれを堰き止めまし。
7番 水争いの遺称地 11:19 7番から亀の池への道 11:21
7番から亀の池への道 11:22 更に進む 11:25
このことが水争いの発端となりました。この石積みが、水の流れを人為的に変えた当時の遺称地です。近畿自然歩道・環境庁・兵庫県』鉄角『「播磨風土記」 水争い遺称地 側面 越部里へ流れる水を堤を築き、出水里へ流している』新設『亀の池・馬立・市野穂』『新池・大成池』ここから暫らく分水道で道の両側に山ゴケが群生し凄くきれいだった。その後滑流しが続く、自然環境は最高に良いがそれに倒木が倒れ込み見苦しい。
8番 亀の池 南西より 11:46 モリアオガエル?シュレーゲルアオガエルの抱卵
一部では手を入れたが量が多すぎる。亀の池の堤から流れ落ちる水路ではかなりの時間を使って川掃除をした。8・亀の池(11:46)白地鉄板道標『中垣内50分 亀岩5分 井関神社奥宮10分』新設『馬立・市野保方面』『新池・奥宮』池の周りには数え切れない数の抱卵(モリアオガエル?)が下がっていた。道はハッキリしないが中垣内方面へ入る。緩く上って行くとマーキングテープが出てそれにも頼り進んで行く。
中垣内分岐への快適道 11:51 9番 中垣内分岐 右が中垣内へ正面が亀山
木々の緑に包まれ、下草なく開放的な雰囲気で歩ける。9・中垣内分岐(12:51)白地鉄板道標『中垣内45分 新池25分 亀山36分 亀の池5分』中垣内へ下る道の方が明確だった。池の気配全く感じられず深い森を歩いている感覚になる。鞍部から中上りをして緩くなった所北東向きに尾根が出ていて現在地確認。10・(12:05)横ばいの後緩く上って尾根を越え、下りが続き「中垣内へ下ってしまうのでは・・・」と思いコンパスと地図で方向を確認すると目的の方向だったが不安だった。
11番 門の築き石 12:13(奥に二つ目) 12番 石塁-2 12:26
やや上向きになった時、門の築石が現れほっ。11・門の筑石(12:13)ここから△亀山へとも思ったが前回気になっていた石塁-2の方へのマーキングを辿ることにした。横へ横へ横へ進んでいると石垣が見えた。12・石塁-2(12:26)ここからはマーキング通り歩いた。13・メインコース(12:35)〜14・△亀山(12:38)快適に進み展望所通過(12:52)今日は蛙の鳴き声は全く無し。15・亀の池分岐(12:56)
14番 △亀山 南から 12:38 亀の池分岐への道 12:50
亀石と蛙岩を見て供養碑の先16・馬立分岐(13:02)ここから祇園嶽への歩きは初めて(これまでは祇園嶽の方から歩いて来た)。北向き尾根に取り着く。新設『祇園嶽・市野保』『城山城方面』尾根通しを歩いたはずの尾根には微かに踏み跡らしきものは在ったが踏み込まれた確かな道は尾根の左下に付いていた。横へ横へと歩く。「こんな道は無かった・・・記憶に無い道」と思いながら歩いていると記憶にあるあの急登にトラロープが現れた。
「これやこれを上っていたんや」この急登を避けるコースが出来ていた。尾根通しの道は展望が良かったはず・・・と思いながら下る。17・峠(13:23)白地鉄板道標『上堰堤15分 亀山55分 市野保(水布弥口)30分 祇園嶽15分』鉄角『市野保1.5km 祇園嶽・出城0.3km』ここからの上りは少しきつかった。18・祇園嶽(13:34 昼 14:27)△祇園山タグ・保護石・展望無し。
18番 △祇園山 13:33 祇園嶽から市野保・井野原・段之上集落 14:22
祇園嶽から亀山・城山(的場山は見えない) 14:22 水布祢コースの谷筋 14:22
新設『祇園嶽城 「播磨国風土記」のタナ坐山に比定される祇園嶽(標高340m)の山頂には、明治42年まで水布祢神社が祀られており、雨乞いの場所でもありました。祇園嶽に城郭があったという記録や伝承はありませんが、祇園嶽から西側と南側へと延びる尾根上には複数の郭と思われる削平地があり、中世の土器も散布しているので、遺構は城山城の搦手を守る城郭であった可能性があります。』
また『東方より祇園嶽山上・祇園嶽より越部神社に遷座した祠・祇園嶽より東を望む写真・木内内則作図の祇園嶽城縄張図と』が添付されていた。その横に上部欠損石柱あり『〇布祢神社跡地・四二年四月公布〇〇・〇神越部八幡神社へ遷座』ここから数歩で岩頭先端に出る。遠望は霞んでいたが岩頭から暫らく展望して昼にした。若いカップルが上がって来たので展望場所提供を伝えたが直ぐに立ち去った。
下山コースは搦手か水布弥コースか悩んでいたが水布弥コースに決めた。このコースは一度上った記憶が有るが記録に残っていなかった(後日確認)。そこそこ歩きの形跡はあったが道の右側のウラジロが繁茂(新芽が成長)して道を覆っていて、多くの場所で刈り払いながら下ったのでかなり時間を費やした。長い下りが続いて麓の林道に出た(15:12)。鉄角『城山城・祇園嶽』南へ緩く下って行くも「水布弥コース」の橋が出て来ず引き返した。19・引き返し(15:15)
水布祢コース山裾辺り 15:07 「てんかさん」の祠 15:25
そして細流を渡ってPに向かっていると祠があった。20・てんかさん(14:27)ここは記憶が有る所で看板『越部の禅尼の墓(てんかさん)平安時代の歌人として有名な藤原俊成の孫女にあたる俊成郷女が夫と死別後出家剃髪しその所領であった越部庄上の保(今の市野保)に隠棲(一二四三)しこの地で亡くなりました(一二五四年)和歌をよくし世の人に越部の禅尼と呼ばれ慕われていました。
後年禅尼に従ってこの地に来た榊原氏によって祠が建てられながく禅尼の菩提がとむらわれています知恵の神さまとして今も香煙が絶えません 自然と文化を親しむ会』その後果樹園?の中の道を通過し橋を渡り集落を抜けPに無事戻った。1・越部神社〜(15:31〜15:48)