379 権現古道(大河内町物語その8


yamaaso/山猿ドッキング。互いに思いが一致して目指したコースは「権現古道」。

激下りして川を渡り、尾根越え破線は激上り、熊部地区へは激下り。

今日一番の探し物、在る説無い説道標何処に・・・。

山猿見逃し道標を、さすがにyamaaso今日は見つけし。

きょう最大の激上り、三歩進んで二歩下る、たまらず掴めばみなイバラ。

なんやかんや遭ったけど無事に着けたよ掛ヶ谷。




賀野神社/権現(雪彦山南東)502m尾根南進〜熊部地区尾根越え破線に下る〜

我孫子川〜熊部地区尾根越え破線上る〜熊部地区〜熊部地区北東720m北尾根越え〜

町境界越え〜掛ヶ谷。



◎所在地 : 姫路市夢前町熊部地区を挟んで西と北東山域

◎地形図 : 2万5千図   『寺前(てらまえ)』  『長谷(はせ)』

◎山行日 : 2006. 5.21 (日)  曇り       

◎山行条件 : 歩き/やまあそ     Age=59

◎コースの見所 : @賀野神社と雪彦山(地蔵・不行・洞)の眺め 

             A雪彦・峰山線(スーパー林道)からの眺め 

             B熊部地区の長閑な佇まい C(17)から西(明神山塊)の遠望

             D点々と今に残る古よりの道標

◎走行距離 : 往路:夢前事務所=43.0km (3)57.6km (4)59.2km

              (5)=65.1km  (3)=72.7km 往復=129.7km

              播但道:神崎南往復 450円×2=900円



自宅発(6:07)〜加古川・姫路B/P〜播但道〜福崎北LP(6:45)〜R=23西進〜

前之庄交右折〜R=67〜夢前事務所(7:04)〜やまあそ合流(7:30)〜R=504〜

1・お堂(7:48 発7:54)〜2・賀野神社(7:58 発8:06)〜3・(8:10)〜4・(8:13)〜

5・車デポ(8:25 発8:33)〜3・(8:51 発9:06)〜6・神社分岐(9:14 発9:18)〜

502m(9:19)〜7・お堂跡(9:31 発9:33)〜8・我孫子川(9:45)〜古道探索〜

9・(10:02)〜10・(10:09 おやつ 発10:15)〜11・(10:28)〜

12・尾根/峠(10:44 発10:48)〜13・(11:07)〜14・熊部地区(11:14 聞き取り

 発11:25)〜15・(11:32)〜16・(11:45 おにぎり 発12:06)〜道標(12:27)〜

17・(12:35 発12:43)〜18・(12:50)〜19・(13:36 発13:40)〜

20・町境界(13:53 発13:56)〜21・掛ヶ谷(14:07)〜22・(14:19)〜

23・池(14:29)〜24・町境界(14:50)〜5・(14:59 発15:06)〜

3・(15:25 発15:30)〜往路〜自宅(17:03)



私が初めて歩いた掛ヶ谷の道標(bR62)の件で「やまあそ」からメールが届いた。賀野神社のことを権現とも言って旧大河内町の宮野から掛ヶ谷に入って、山越え谷越え賀野神社に参拝していて、往時の道(古道)が在り一部はすでに歩いたとのこと(多くのメールのやりとりを要訳)。私も関心が有って、「それじゃ日程を合わせて二人でその古道を踏破しよう」と言う事になった。当初はGWの間にと言っていたが雨などで延びて今日の「権現古道踏破」に至った。

集合場所、車デポ地点は私の考えを取り入れてもらった。で、当日「遅れてはまずい」と思って早いめに家を出た。順調に走れて集合場所の夢前事務所に着いた。 (7:04 旧夢前町役場) ストレッチをしながら やまあそ を待った。集合時間ピッタリ やまあそ が着いた。 (7:30) デポ地へ向かう時「今日の大きなポイントになる所、お堂と賀野神社に寄りたい」と言う事で やまあそ に先導してもらい走った。近日の雨で夢前川が増水しておりやや心配。山の内地区に入ると道の脇に満開の「シャガ」の花が一面に咲いていた。

そしてお堂に着いた。 1・お堂(7:48) このお堂は東の尾根に建っていたが平成14年11月この地に遷座、二体の大師坐像石仏が祀られていた。一体には戒名も彫られていたので供養の為。二体目も天保年間の銘と我孫子と坂根の人(やまあそ はメモを取っていた)が建てていたと思う。(この時点で、やまあそは権現古道を歩く下見でこのお堂のあった所を既に踏んでいたが後の楽しみでかお堂跡が在ると未だ口にしていなかった) 発(7:54)

(1)ピンカーブの後直ぐに建つお堂
面積は一間×一間半この地を寄贈してもらって建てたと記してあった

下記やまあそリポ参考
一体=天保四巳(1833)年山之内村坂根 世話人 定次郎二体=天保7申(1836)年八月十日
我孫子 文五朗 

次の目的地賀野神社へ向かう。 2・賀野神社(7:58) 車から降りるなり やまあそ はカメラを持って本殿へ駆け上がった。私も上がると目的を果たしてゆとりの姿で居た。後で歩く尾根と繋がる道を教えてもらう。ここで私が今は亡き父に聞いた賀野神社に関わる話をする。賀野神社は牛の神様で、波賀町「宍粟市・私の実家の在る所」からも牛を連れてこの神社にお参りに来ていたらしい・・・。 これを聞いた やまあそ は??誰しも信じ難い話と思い繰り返して話さなかった。

(コースは宍粟市波賀町〜一宮町の神戸(かんべ)地区から岡城川に沿って上り三辻山915.8mを経て神社「地図破線あり」)しかし神社への道を外して安富町の関地区へ下ってしまう人もいたらしく、神社にお参りした証には神社の大麻(おふだ)が無くてはならずごまかしようが無かったらしい。

夢前町史跡の案内によると「現在の本殿は慶応四年(1868)に改築された。入母屋造りで精巧をきわめた立派な建築である。農業、牛馬の神として県下をはじめ近県にまで信仰が及んでいる。」他に元々は「雪彦山大権現」と言った。誉田天皇(応神天皇)が祀られているなど等が記されていた。

  
賀野神社本殿(7:59)本殿の左に右の牛が祭ってある  像の全長は180cm?後方の山は通称「雪彦山」

牛は寝そべっているが馬は牛より一回り大きく、片足跳ねた躍動感ある姿の青銅製の像が建っていた。以前は境内から大天井岳などは見えなかったと思うが今では丸見えになっていた。 発(8:06) 車デポ地へ向かう。おっとその前に今日のスタート地点の確認、地形図の賀野神社の「賀」の字の所(ピンカーブ) やまあそ は神社からスタートの案だったが私はここからスタートしたいと言って合意してもらった。その訳は上記の神戸から神社へのコースの確認があったからである。

ここは車が4台位は楽に止められる広場で軽トラが1台止まっていた。運転手に『この尾根に踏み跡在りますか』と尋ねたが返事もなく、普通の対応とは少し変だった。覗くとかなり踏まれた跡が在ったので獣道か・・・と思いながらそこを発った。 3・(8:10) 道端に藤とピンクのウツギが点々と咲いた林道を走ってデポ地点に着いた。 5・車デポ(8:25) 二度来る事は無いと思っていたが「権現古道踏破」でここに車をデポする事を思いついた。ザック・鉈・スパッツ・ヘルメット・・・やまあそ号に積み替えて発つ。 (8:33)

スタート地点まで下り勾配が多ければMTBデポが好ましいが長い上りが二箇所在るので車が妥当か・・。往復ともに素晴らしい景色を眺めながら走って戻ってきた。 3・(8:51) 運転手が乗った軽トラは未だいた。靴にヒル除けをふり掛けてスパッツを付けようとした時ロングとショートのペアーに気が付く、積み替えの時確認しなかった事が災いした(色が同じ。 やまあそ HPで私の足元を見てください)。林道から北尾根に付く破線の確認をするとハッキリと判る道が残っていた。ますます神戸からの古道の可能性が高くなった。尾根左下の踏み跡からいよいよ「権現古道踏破」に向けての戦いが始まる。 発(9:06) 

ところが、いきなり やまあそ がカメラのシャッターを切っていた。何を・・・と見ると鳥篭とラジカセが木に掛かっていた。篭の鳥(ヤマガラ)を鳴かせて仲間を呼び寄せ、篭に付けられた棒に巻きつけた鳥もちに止まり、飛べなくなった鳥を捕獲して家で餌付けして自分で飼うか販売するかする。これは私も田舎で実施した事が有るので直ぐに分かった。私は自分で飼ったし私以外でも数人が居た。

現在はこれらの小鳥は保護鳥になっていて県知事の許可を得て一人一羽限定で飼える事になっていると思う。ラジカセから音は出てなく、篭はもう一つ掛かっていてシジュウガラが入っていた。ヤマガラは人にも良く慣れておみくじを引いてくるというような芸が出来るまでになる場合もある。※メジロを鳴かせる大会で数年前に複数羽持っていて捕まった人がいたと思う。  

 
(3)山へ入って行く やまあそ(9:06) ヤマガラが入った鳥篭とラジカセ(9:07)

直ぐ尾根に乗って下って行く、右は神社の境内なのだろう古木が残されていた。露岩も出るが道と判る跡が続いた。『お宝があるで』と やまあそ 『お宝って何かなー』 『在ったー』下り切った所に石柱(20×60cm)が寝ていた。 6・神社分岐(9:14) 上面に字が彫ってあって やまあそ と判読に入る。指さしの浮彫の下に「左・か・ん・べ」と読めた『かんべって??』 やまあそ 私は『一宮町の神戸や』と直ぐ分かった。やっぱり一宮町からの古道は在った。「か」の字の右上に文字らしきものがあり擦っていると『ちょっと待った』と やまあそ なぜかと思い見ると何やら取り出した。見ると小形の「亀の甲?たわし」文明の利器で擦ったが新発見は無かった。右が無いのは何故か??周りを探せば在ったかも・・・。 発(9:18)

ここから西に下れば神社に付く事を知る。自然林の尾根を進む、「槁」と彫られた石標が立っていた。502mを越えて下って行くと尾根右が伐採地になりその前方上が開けて重なる稜線の上に明神山の頭が覗いていた。 (9:27) 上り返すと植林帯になって右樹間からちらちら舗装路が見えて緩く下っていると『在ったー』と やまあそ。 今度は扁平な石が等間隔で並んでいた。朝方見たお堂が建っていた跡で峠だったのだろ。 7・お堂跡(9:31) 瓦や波板トタンもあり、坂根地区(村)へ下る道も残っていた。我孫子川への下り道は尾根東面を逆戻りしながら緩く下っていた。 発(9:33)

(7)お堂跡に残る礎石:北から(9:31)

道は意外とハッキリしていて『この分だと、この急斜面の何処に道が付いていたか分かる』と思いながら進んだがザレ気味の急斜面と言う事でその思いは間もなく絶たれた。やまあそ と持てる勘と状況判断を活かして必死に道を探したが全く分からなかった。こうなって南の明確な尾根に可能性を感じたが倒木が激しく移る事も出来ず比較的緩い傾斜の谷を下った。次第に水音が大きくなってきて水面が見えてきた。心配していた水量は問題なく川を渡れた。 8・我孫子川(9:45)

並行して走る林道に出て橋の橋脚(石垣)を探したがこれと言った物は見当らなかった。 やまあそ も下って来て、今度は熊部への破線取り付きと下流を探す。破線谷は薄暗い杉林で水が流れる谷だった。我孫子川の方に橋脚部が無いかと目配りしながら更に下っていると川の両岸の広範囲に石垣が現れた。『これやー』と思い、私は向こう岸へ渡り道の跡を探したが形跡も無く、地形を見ると川が曲がっている所で護岸用と思う石垣だった。そんな時『あったー』と やまあそ の声がしてきた。そこへ行くと やまあそ は石標とにらめっこしていた。石標には「?田」と彫られていた(写真参照)。 9・(10:02) 後日の やまあそ 説では「亀田」と判読。

   
「?田」または「?池田」の石標この石標は(12)地点(我孫子川から熊部地区へ越える稜線)に立っていた石標で我孫子川沿いのとは
少し違うイメージを受ける。


(10)破線入り口:南から(10:09)
おやつの前に何かを見つめる 考古学者風やまあそ

やまあそ は初め道標かと思ったらしく興奮気味だった。が違うと分かって読みは「きびた?」かもと言った。(私は読めなかった)境界石標と分かって破線の入り口へ戻る。朝が早かったのでここでおやつにしてもらった。 10・(10:09) おやつを食べながら道を探すが形跡は無かった。谷の右(南)尾根は岩稜で谷の左(北)を上る。 発(10:15) 上り始めて間もなく道が現れた。やまあそ が地元で聞き取りした情報では「この尾根越えはええ道が付いとる」との事だったので「あの人が言うとった通りや」と共にウキウキ。

しかし、それも長くは続かなかった。上方に倒木が・・・それも完全に道を塞いでいる。倒木を巻き、谷川を右に左に移りながら上っていると谷の右山肌に無字の石標が立っていた。風化して文字が消えたとは思えなかったが・・・。傾斜がきつくなるにつれて道が消えていき、水流は左の谷へ入る。 11・(10:28) 傾斜が更にきつくなって「ほんまに道が付いていたんか」とお互いに言い合いながら上っていた。コンパスで方向を確かめると合っていた。尾根が見え始めてから随分とかかって二抱え位ある太い杉が目立つようになってやっと尾根に立った。 12・尾根・(10:44) 

ここにも我孫子川沿いと同じ字の石標が我孫子川のと向き合うかたちで立っていた(上写真)。それを見た やまあそ は「亀田」に見えると言った。熊部への下り斜面は上りよりも更にきつかった。 発(10:48) 下り始めて間もなく北の谷を覗くと岩盤谷に一筋の水が流れていた。だがお互いに「ほんまにここに道が付いとったんか・・・信じられへんわ」「南の支尾根が気になるなー」を繰り返しながら下った。

 
(12)熊部越え尾根:南東から(10:46)  熊部への下り谷筋を振り返る(11:02)

傾斜が緩くなると谷筋はガラ場になる「道を付けるなら右(南)の支尾根やで」と、まだ口にしていた。ガラがやや収まると道が出てきてかなりの水量ある北の大きな谷と合流する。 13・(11:07) やがて下方が明るくなって、民家とトタンの猪垣が見えてくる。猪垣と谷川との間を下っていると やまあそ が谷川越えに小さな祠を見つけ、谷川を渡って祠の前に立つ。私は地神様を祀っているかと想っていたが大師坐像が祀られていた。 14・(11:14) 祠の上方は岩場だったがその南裾に獣道かも知れないが踏み跡が付いていて少し歩いてみて引き返した。おそらくここが熊部村からの入り口で多くの人が山越えの安全を願い無事を感謝してお参りをしたことだろう。 

     
民家とトタンの猪垣が見えてきた(11:111)  祠と大師坐像(11:44)祠の高さは50センチ未満だった


古道の聞き取りをした川向こうの民家(11:25)

舗装路に降りて川向こうで畑仕事をしている人(60歳代男)に尾根を越えて来た破線の道を尋ねたが当人は分からず自宅の方に戻られた。お年寄りが居られて聞いて下さるような様子だったのでそちらへ向かった。その家に行くまでにも老人(80歳位男)に出会って同じ事を聞いたが知っておられらなかった。鉄板の橋を渡って先の人の家(上写真)へ行くと、おばあさんが奥から出てこられて4人で古道の話になった。谷筋を上って我孫子川に下ったことは明らかになったが激斜面に道が付いていたか否かは確認できなかった。

合わせて寺前地区への道も尋ねたが情報無し。お礼を言ってそこを去った。聞き取り発(11:25)  川に沿った、車も通らぬ若葉萌える木々、小鳥の囀り聞きながら舗装路を歩いて集落奥へ。やまあそ が「ここや」と言う。見ると谷川に丸太橋が架かっていた。私は橋の下手の川に下りて やまあそ が橋を渡るところを写真に収めた。 15・(11:32) (その写真を見て何かの格好に似ているのだがどうしても想い出せないでいる)その後私も橋を渡ったが三本丸太で半ば腐っていて危ない思いがした。やまあそ が一度歩いていたので難なく次への上りが分かったが初めてだと不安を抱きながら踏み込んだと想う。

   
(15)丸太橋を渡る やまあそ(11:32) (16)昼食(11:45〜12:06)やまあそ 

橋を渡ると杉林の中に今も歩かれていると思う道が付いていた。間もなく谷の規模からすると多い量の水が流れている谷に出た。やまあそ 『疲れてもう足が上がらん』と言った。久し振りの「やまあそ節?」谷左上方が明るく開け眩ゆかった。谷左が伐採地に出て鹿網が出た。中にはおなじみの杉か桧が植えられているだろうと思っていると嬉しいことにケヤキが植えられていた。この後現れるイガ地獄の話をしながら細流に沿って上る。

傾斜が緩んだ所で『昼にしょうか』と言った。『イガ地獄を突破して尾根で』と やまあそ。「戦の前の腹ごしらえ」しかもマイナスイオンも漂うここが最適と譲らず?ここで昼にしてもらった。 16・(11:45) 私は何時も通りおにぎり、やまあそ は定番だろうコンロを取り出してラーメンを作っていた。みつまた・ニリンソウ・ヤブレガサが生え、なんとイトトンボが複数いた。話の中で やまあそ の山友、向井さんの話になり、今日も誘ったようであったが向井さんは来なかったらしい。(ヒルとイガに対して極度のアレルギー体質で“ヒ”とか“イ”を聞いただけでもジンマシンが出るらしく同行しなかったらしい「これはジョークです」)左伐採地の植樹はここから杉に変わった。 発(12:06)

道は使われている様子で上って行く。今日一番のお目当ての道標が在るとされる地点に近づく、私は谷の分岐を探した。えげつないイガがあって思うように探せなかったがほぼ納得がいくまで探した。上の方から やまあそ が私を呼んだ。やまあそ はもっと上の方だと決め付けていたようでかなり上の方に居た。植えて10年満たない杉林をジグザグと上る、不明瞭で道とは思えなかったが やまあそ は一度歩いているので自信あり。恐れていたイガは切り開かれていて、やまあそ に言うには『10倍のスピードで上れてる』だった。

(今後歩く人は、マーキングはしていないが張り出した杉の下枝を切り払っているのでこれをマークして上れば良い)私は道標は「もう無い」と思いながら上っていた。そんな時道が何となく分岐となった、思案をしていると『左や』と やまあそ。(右の方が道らしく見える)やまあそ は左私は右を上って見ようと話がまとまる。少し上った時『あったー』と やまあそ が大声を上げた。やまあそ は未だ分岐に居た。足元を見ると一部欠けた長方体の自然石が転がっていた(写真)。 道標の最寄の杉に布を二本巻いた。 

道標を見つけた(12:27) 
道標の長さは愛用の鉈とほぼ同等
彫られている文字は「左 安和可」=「左 あわが」=「粟賀」=「粟賀町」と思う
やまあそ は『我ながら大したもんやたいがいの道標は見逃した事が無い』と
自分を称えたが、私も『さすが やまあそ 』と称えた

私は石が在ることすら気が付いていなかったのに・・・。読みは「あわの」か「あわが」・・・。余り深く考えずに(あわが「旧神崎町の粟賀町」)で落着といきたいところ。寺前を無視して粟賀となるところが洒落ている。一段落して話し合いの通り左右に分かれて上った。左を指している道標が在る位だからここはしっかりした分岐だったのだろう。右の方も何かのお宝が在りそうな予感がした。 大柿尾根(12:33) 尾根に踏み跡が在り、周りを見ると東の激斜面に明確道がジグザグと下っていた。峠だったのか・・・?。

この尾根の南の三角点名は「与佐兵衛613,7m四等」東の谷も与佐兵衛と言うらしい(やまあそ)。ドリンク剤の空ビンが沢山転がっていたからハンターが通る道の可能性が高い。やまあそ が呼ぶ『新発見があったー』と返しながらコブを越えて合流した。 17・(12:35) 振り返って眺めると我孫子川から越えた尾根と激下りの谷筋が見え、尾根の右の方に大天井が頭を出していた。また尾根の奥には明神山と右の山塊が覗いていた。

ここから掛ヶ谷への入り口も やまあそ が見付けていたのでそれに乗っかり進む。コルから杉林に水平に道が付いていた。発(12:43) 少量の水が流れる与佐兵衛谷の第一支流源頭直下辺りを通過する。(やまあそ はこの辺りまで下見をしていたのか・・・)ここには道の石垣が残っていて『よし、よし古道はこれでなくっちゃー』と往時を想いながら歩いた。尾根を回り込むと岩場になって道は消えた。やまあそ はそのまま横ばいを行く、私は岩場の上に道を求めたがこれは外れだった。


与佐兵衛谷の第一支流源頭直下辺りの谷を渡る やまあそ(12:45)

水音が大きくなって与佐兵衛谷の本流に出るとヤブの中に炭焼き窯跡が在った。 18・(12:50) 二人で道を探すが形跡なし、もしかして・・・と想う所は谷川の左に一抱え位の石が規則正しく(私感)上流に向かって並んでいたのでそれが道の石垣だったかも・・・。(葛や柴で覆われていたので確認せず)やまあそ は谷を渡って、谷筋の右の杉林を上っていて私を呼んだ。後を追って上る、始めは古道が在っても納得の地形だったが次第にザレて傾斜がきつくなって行った。

やまあそ の聞き取りでは谷筋に道が在るとの事だったので谷に注目したが今はガラとイガでとても歩けるような状況でなかった。歩いている杉林も激上りとなる、道は無い。左谷筋に沿うため杉林から左雑木林に移り少し休む。やまあそ は疲れ果ててここで「のたれ死に」とか「行き倒れ」とか縁起でも無いことを言い始める。私に優越感を与えておいて・・・の作戦に出たか。どんなに困ってもタクシーを呼べる訳でもなく自動販売機がある訳でもない、今となっては歩き通すしかない。確かにきつかったが救われたのは今日も涼しい風が吹いて後押しをしてくれていた。

ザレで滑り、思う様に上れなかった。やがて岩場に加えてヤブになる、ここでやっと鉈の出番がきた。切り開きで突破してやれやれと思う間もなく伐採地は小ぶりのイガとイバラが行く手を阻んだ。 (19) 方面見るとその上方に「柳谷797.6m四等」が見え、鉄塔が天に突き出ていた。振り返ると我孫子川から越えた長い稜線の奥に大天井が大きく頭を出し、その左遥か彼方に明神山山塊が険しい稜線を描いていた。イガなどを切り払いながら上ったが谷筋から50m位東に外れていたので尾根に出る前に僅かながら修正してコルに下った。 19・(13:36) 上って来た谷筋に道を探したが見つからなかった。ずーと考えていたが道は谷の北の小尾根の何処かに付いていたのでは・・・と。


(19)から振り返る奥左明神山・奥右に大天井の頭

掛ヶ谷の方への道も見当たらなかった。「町境界へは横ばい道のはず」と言っていたがおやつを食べている間に やまあそ は道を探して杉林の谷を下って行った。私は横ばいにこだわって進んでいると『道が在ったー』と声がした。離れている距離は30m位か、そこへは下らず谷を回り込んでいると炭焼き窯跡が在り、僅かの水が流れていた。そこに異様な物体が有った。それは足場用とも思われる長さ1m位の鉄パイプだった。空から降ってきたとしか考えられない・・・。やまあそ が見つけた道で合流して進んだ。思惑通りほぼ横ばいの道。所々で途切れたがそれに惑わされる二人ではない。

そして見覚えの有る所、町境界尾根に着いた。 20・町境界(13:53) やまあそ は何時ぞや南東の谷から上って来て、私は町境界を北西から下って来てここを通過している。 bR71 掛ヶ谷へ下る道は在る。そんな時 やまあそ がこだわりの杖で何やら掘り始める。見ると、いかにも道標らしき石だった(御影石の境界石は別に立っている)。私も加わって鉈の先で掘ったが只の石だった。 発(13:56) 始めは道がハッキリ残っていたが間もなく消えてしまった。しかし倒木の合間に時々現れたりした。ジグザグと谷筋を下っていると水音がしてきて谷川に下りついた。 21・掛ヶ谷(14:07)

見覚えある太い杉林の中の山道を目指し、谷川を渡り道標の前に着いた。 (14:10) ここに短い期間で三度立つとは想いもしていなかった。道標に直面して座り込み「ごんげん」と彫られている字を観察する。「ごん と げん」それぞれの字のつながりが不自然に思える。「ご」と「ん」がつながっているのが気になる。やまあそ に下流5分もかからない所に在る掛ヶ谷の滝を観に行こうかと誘ったが「今日はキャンセル」とのことで池に向かった。

 
(20)からの下り(14:01)  (21)掛ヶ谷の道標

3回目の道でハイキング気分で歩いた。豊富な水量と水音に沿って上り間もなく谷を左へ渡る。谷は険しくなっていき崖に突き当たる。 22・(14:19) 私もそうであったが やまあそ も「何処をどう進む・・・」初めての場合はたじろぐ。谷を渡って岩盤に彫られた段を見ている時 やまあそ が『大柿さんあれ何』と言った。見ると、垂直の崖(岩)に20cm角位のホゾ穴が幅2m位?で彫られていた。橋桁を架けるための穴だった。右岸のには初めての時から気が付いていたが左崖のには初めて気が付いた。道標とかこういった類の物には自然と目が行く能力が備わっているのか やまあそ。これで左岸に気になっていた「何とか登れる段差」の謎(初めは「ここを登るのか」と思った)が解けた気がした。

  
(22)岩に彫られたホゾ穴:谷川の南  (22)岩に彫られたホゾ穴:谷川の北

緩い上りでやがて池(掛ヶ谷の貯水池)に着いた。 23・(14:29) 池を覗いた やまあそ が大きな鯉を見つけた。見ると白・赤・白黒などの体長50cm位の鯉が日向ぼっこ?をしていた。池には『大きな鯉がいる』と聞いていたがその通りだった。初めはここから池の右に入り東尾根に付いた巡視路で林道に出る計画だったが今日のコースに変更した。私は何も考えることなく歩いた放水路(幅3m水深2cm位)も やまあそ は慎重。タクシーが呼べない所ではこれ位の慎重さがあっても良いかも知れない。二度歩いた道で倒木が待っている谷へ入って行く。

倒木帯の所に出ると、つい最近から倒木の処分に入っていた。あのイガ帯の所同様ここも谷筋を塞いでいた倒木は切り放たれて楽に進めた。ラッキー!!と思っていたが処分のために切られた杉が前回以上に谷を塞いでいた。『何処を通るの・・・』と、やまあそ 「倒れて重なり合った杉の上を伝って突破するしかない」と、判断して突っ込んで行った。『猿ではあるまいし、これを巻いた方が・・・』と、言いながらも後を追って来た。倒木帯を通過して一息入れる。やまあそ は細流で顔を洗った(冷や汗を流したのか?)。 

 
(23)池にて:何かを見つめる(14:29)  ラッキー倒木帯(14:39)      

 
ハード倒木帯(14:41)  倒木帯突破間じか(14:45)やまあそ

後は伐採されて明るくなった谷筋を上って町境界コルに着いた。 24・町境界(14:50) 町境界は巡視路で、もう権現古道・山歩きも終わったようなもの・・・。上り切った所は左右が開けていて左遠望は明神山山塊までが見渡せた。チラリと見えていた熊部地区の民家は木々の緑に埋もれて見えなかった。その後一息頑張って雪彦・峰山線に出た。 5・(14:59) ヒルはいなく、恐怖のイガも無く、倒木も・・・これは少々我慢で無事踏破出来た。計画で、私は8時間と言っていたが やまあそ の下見などのお陰で6時間強で歩けた。 発(15:06)

今後(6・17)の道標の運命は如何に・・・何処かで、在った地点をを明確に残して保存出来ないものかと真剣に思っているがこう言う物は現地に残すのが最良なのか・・・。

※追記
  貯水池から30m位入った辺りの右山肌で「ミソサザエ」の群棲(少なくとも5〜6羽)を見た。ミソサザエはカワガラスの色に似ていてメジロよりも小さく全身クロに近い色に見える鳥。鳴き声は春先に鳴くウグイスの「じ鳴き?地鳴き?」に似てチャッ チャッと鳴き、聞き分けは出来ない。一羽を見るだけでも稀なことなので非常に貴重な光景を見た。


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※ポイントbヘ地図を一度削除した関係で
 不明確とポイントが抜けている

5・車デポ

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