№759  宮山(△八幡山)~スベリ山~大島山 (約6.0km)


里山歩きに一寸ヒゲを生やしたこのコース、岩盤・横這い・アップダウン適度に歩くこのコース

のんびり歩きに打って付け。弁当持たずに下山後に、お店で食べてデッキへ移り、

浜風に吹かれながら山の思い出、語り手聞き手時を忘れる。



◎所在地 : 相生市那波本町・那波西本町の北山塊

◎地形図 : 『相生(あいおい)』    

◎山行日 : 2021.6. 2 (水)  晴れ

◎参考:宮山 ①10.12.11 UPなし 

◎山行者 : 「明石山の会」長浜寿一・富永キヌエ・川上欽江 一般参加(安藤良子・大柿)  Age=74

◎コースの見所など : ①宮山までの岩盤上り(最初の大岩盤展望と一休み)  

   ②展望所(東面展望)・スベリ山(東西展望)  ③夏場は不向きコース(暑い)

◎走行距離 : 往路 ①?km   往復 96.6km



那波神社~宮山(173.6m三等)~展望所~スベリ山~大島山(80.0m)~道の駅(白龍城)


自宅発(7:00)~中地(7:45)~1・相生M/B・P(8:17~8:30)~2・(8:40~8:55)~

3・那波神社(9:00)~4・大岩盤(9:20 休み 9:40)~5・宮山(9:55~10:00)~

6・(10:12)~7・分岐(10:21)~8・分岐(10:29)~9・展望所(10:39~10:53)~

10・スベリ山(11:05~11:10)~11・(11:19)~12・集落(11:32)~

13・大島山入口(11:40)~善光寺(11:48~11:55)~13・大島山入口(12:00)~

道の駅(13:05 昼・懇談 15:00)~1・相生M/B・P(15:15)~全員乗車~姫路駅~

(新幹線)~加古川駅~自宅(17:30)



コロナ禍、県下非常事態宣言発令中(6/20まで)なれど今日は「明石山の会」の例会に参加(自己責任)させてもらった。
私だけが現地集合。加古川辺りから渋滞を感じつつ走り、中地でも渋滞になる「集合時間に間に合わないかも」その時は単独でも歩くつもりに切り替えた。しかしその後順調に走れマックスBのPに着いた。1・相生M/B・P(8:17~8:30)靴を履き替えおやつを買って那波神社へ向った(途中道を尋ねる)2・(8:40~8:55)
行き交う人に挨拶をしながら仲間を待った。

その中の一人の男性(同年代?)「山登りするんか」「この上の宮山に」「低い山でも一人は危ないから・・・」「連れを待っています」間もなく駅方向から仲間がやって来た。挨拶を交して神社の方へ上って行く。神社右手前に「浄土真宗西本願寺派 江林山 得乗寺」が在り掲示板に「誮しい」と書かれ、その横に「何と読むんでしょうか」と書かれていた「読むのでしょう」でなく「読むんでしょう」と云われているところに住職のお人柄を感じた。長浜さんはコース下見の時に把握されていたが他者4人は分からなかった。答えは環境依存文字で「やさしい」だった。

 
2番・奥:那波神社と宮山 8:45            「やさしい」と読みます
 
 
3番 那波神社 9:00                  土塀の一部がが残っていた 9:11

少し上ると那波神社境内に着く。
3・那波神社(9:00)この神社は屋根に特徴があった(写真参照)境内の左手の階段から登り始める。先頭の長さんと富永さんに続く、少し上ると左手に大きな「忠魂碑(陸軍大臣・・・・)」が建っていた。灌木帯を中上り大岩盤が現れここで休憩。4・大岩盤(9:20 休み 9:40)東方面は、相生湾の遥か彼方に天下台山が見え、南西で目を惹くのは、なんと言っても尼子山。暑くもなく爽やかで山関連の話に花が咲く。川さんから、たつの市名物の「・・・大福」と安さんからお菓子を頂く。

 
大岩盤に到着 9:20                 同所から展望・相生湾と天下台山(半分欠けている)方面

 
岩盤上りが続く 9:42                 尼子山(左から二つ目ピーク)が在る西の眺め 9:46

発ってからも岩盤が続き、通称「おっぱい岩」と言う二コブの岩の横を通過する「ラクダの背でも良しと思う」
(9:45)。西面が大全開する。上り切ると視界塞がり横這いの後、岩盤とザレ地を上ると宮山に着いた。5・宮山(9:55~10:00)三角点石標は三等なのに四等に使われていることが多い真鍮製だった。南面のみ展望あり。国旗?掲揚ポール(15m?)は老朽化?倒されていた(長さんは下見の時、破線で上って凄いヤブだったとの事)。視界塞がるもウバメガシの落ち葉を踏みながら快適な道を下る。

 
5番 宮山三角点南から 9:55           同所から東展望 9:56

 
7番分岐・奥へがスベリり山               ケルンを見ながら進む 10:26

ソヨゴの花(小さな白い花)があちこちで咲いていた。
6・(10:12)前方が開け正面に天下台山方面が見えた。しばらく下ると南北道に合流した。7・分岐(10:21)「那波小学校・相生駅・スベリ山」「宮山」の個人道標あり。南へ折れ、ほぼ横ばいが続く。中頃から高さ120cm位で伐採された木(径5センチ前後)の上にケルンを見た。それは次々と現れた。この発想、この遊び心に思わず拍手。8・分岐(10:29)「那波小学校(南の谷破線)」「相生駅・展望所」「スベリ山・得乗寺」の個人道標あり。緩い上りで尾根に着く。(10:33)

相生駅方面が見える。一人北への開きを進むと「相生駅へ」の道が下りていた(地図に無し)。引き返し先行の後を追う。上り切ると分岐、風化で読み取りにくい道標あり左へ折れる。
9・展望所(10:39~10:53)露岩の東面伐採され全開した。富さんから皮ごと食べられる外国産のブドウを頂く。歓談してると「変った新幹線や」赤・ピンク・白のまだら模様に一同???安さんがスマホ検索すると「キティーちやん仕様」とのことだった。5分くらい停まっていた様な気がした。集合写真を撮って発つ。

 
スベリ山から相生駅 10:39             「キティちゃん」仕様の新幹線 10:42 (ズーム)

 
9番・展望所にて東から 10:50              スベリ山(前方)へ向かい下る 10:56

丈の低い灌木とシダの中についた道を下る。上りにかかると傾斜がきつくなり、ここで「スベリながらの上りが山名の由来か」と思ったりした。山歩きで一番心配してた安さんはスムースな足運びで2番手を保ち、私と川さんが後に着いた。10・スベリ山(11:05~11:10)

 
10番・スベリ山 11:06                 ザレ場を進む 11:18

 
宮山を眺める・右尾根から回り込んで来た 11:19   大島山(中央の饅頭)が見えた 11:20


    
山裾に残る土塀跡 11:28                町並みを観ながら大島山へ向かう 11:34

頂は岩盤で滑る気配全く無し。「何でスベリ山?」西の展望が良く宮山を中心に広く見えた。下り始めはザレ場を横移動し下る。
11・(11:19)灌木帯を下ると墓地から神社に出て民家裏から車道に出た。12・集落(11:32)舗装路歩きになったが数軒の外壁が漆喰塗りの家が残っていて往時を感じる。13・大島山入口(11:40)安さんはここで待機。

 
湾の傍らを歩き大島山へ向かう 11:38       13番・大島山入口 11:40

以下入口辺り看板『西国三十三所巡り(巡礼所) 大島山の石階段の始まりから山頂までに西国三十三所の観世音菩薩の石仏と番外三所の石仏が、大正十三年に地元の人々よって奉納安置されました。西国三十三所は近畿二府四県と岐阜県に点在する三十三ケ所の観音信仰の霊場の総称で、これらの霊場を札所とした巡礼は日本で最も歴史がある巡礼行です。「三十三」とは観音経に説かれる観世音菩薩が衆生を救う時に三十三の姿に変化するという信仰に由来し、三十三所の観音菩薩を巡礼参拝すると現世で犯した罪業消滅して、極楽往生できるとされております。

しかしながら、西国三十三所巡りは広範囲の為に、全てを巡り結願することは困難な為、この地に石仏三十六体と善光寺如来を奉納安置して、西国三十三所巡りを創りました。石階段に観世音菩薩の石仏が奉納安置された同年山上二は、この石仏西国三十三所巡り結願仏として観世音菩薩をお祀りした「観音堂」と善光寺如来をお祀りしたお礼詣りのお堂一庵を構え「大島さん」と呼ばれていました。

ところがこの観世音菩薩と善光寺如来が盗難に遭い、その後観音堂は朽ちて、観音堂は現在残っていません、お礼参りの御堂は昭和三年に再び信州善光寺より御本尊として善光寺如来をお迎えし、善光寺寺号を拝命し、現在に至ります。現在、山上の善光寺には、この石仏西国三十三所巡り結願の仏として「如意輪観世音菩薩が祀られています。 大島山本覚院 善光寺』
 

石碑『大嶋城址 長治元甲申歳相模国海老名郷ヨリ海老名家季ガ下向此の地ニ築城シタガ建武三丙子年五月十九日児島高徳ノ父和田範長ニ火ヲ放タレ城は灰燼ニ帰シタト伝ヘル』

看板『大島城跡 この大島城は、長治元年(一一〇四)播磨海老名の祖家季(いえすえ)がここに城郭を築いたのがはじまりといわれています。城主海老名氏は、代々、矢野荘別名の下司識(げししき)、矢野荘例名の地頭識等に任ぜられた豪族です。建武三年(一三三六)別名の下司職であった七代景友は、赤松円心に属し、弟の詮季(あきすえ)や同族の泰知(やすとも)と共に白旗城にたてこもって新田義貞軍と戦い功績をあげましたが、

留守にしていた大島城は、新田軍に組した者によって焼き落とされたといわれています。また、江戸時代中期の文書によると、「大島城は那波城とも言う。丘ノ台は二の丸で矢倉跡、今は畠となる」とあって、この城の規模を知る手がかりとなります。 相生市教育委員会』

兵庫県の看板
『環境緑地保全地域 大島山 指定年月 昭和55年3月21日 瀬戸内臨海部の岩盤上に特有に見られるウバメガシを中心とした林である その他・・・』

看板
『大島山の由来 大島山は 蝦江(相生湾)に浮かぶ翠の美しい離れ島であった 保元二年に小千通清が架僑し次に赤松氏が船橋をかけて則村の時に与えられたが建武の役に弾正の軍が敗走し嘉吉の役に惜しくも焼失してしまった その後宝永七年前川新右衛門が那波新田を開墾した際陸つづきとなった 大島山は藤の名所として知られ往時より武将をはじめ里人たちが藤見の宴に興じたと云われる 頂上西側の井戸(通称ブツブツ井戸と呼び疣とりの名薬といわれた)の傍らにひと抱えもあるほどの藤かずらがうねっていたが昭和十二年九月の台風に根こそぎ倒され枯死してしまった 
頂上には金毘羅 住吉の両神社と地蔵堂があり年々歳々祭礼が行われていた 殊に地蔵祭は里人が手ん手に松火をかざしして参拝する珍しい祭りで深い茂りの中に点滅する松火が海面にうつる美しさは夏の夜の風物詩であった ”縄の浦ゆ背・・・・・沖つ島こぎみる船は釣しすらし・・・・”(点々の所は写真では汚れていて不明) この万葉集の短歌は千三〇〇年に山部赤人が那波の浦を詠んだ歌で当時離れ島であった大島も沖つ島の一つであったことだろうとおもわれる 昭和五十年十二月  平成十三年十一月那波クラブ創立三十周記念事業年』


左回りで上る。滑り止めの横溝が掘られたコンクリ舗装路を上って行く(中上り)頂部は平坦で東屋も有り、トイレも完備で公園風だったが余り利用されている気配は無かった。上って直ぐ左奥に「大島山と海老名一族の墓地」の管板が立っていた(解説省く)。墓地は一段下に在ったが上から覗くに止め他者の後を追った。
善光寺(11:48~11:55)本堂と庫裏は連結し庫裏の横で住職と檀家?総代?さんが道の改修?作業をされていた。その傍らの岩に野口雨情の歌碑が石板に彫って埋め込んであった。

 
大島山頂上 雨情の歌碑 11:53          善光寺本堂 11:55

 
道の駅「白龍城」 13:05               同食堂入口・GOTOの後のテーブルで歓談した

「那波の大島 椿の花は 春の桜の 中に咲く」歌の内容から野口雨情が当地を訪れた際に詠んだものと思われる。崩し文字で読み上げるまで頭の体操、「中に」が読めず作業している人に教えてもらった?。下り道はジグザグで西国三十三所巡りの観音石仏を拝みながら下った。
13・大島山入口(12:00)町並みを観ながらM/BPを横断し食事処の道の駅に着いた。道の駅(13:05 昼・懇談 15:00)そこそこの利用者がいた(食事代900円)食後入り口横のテント下テーブルで山歩きの想い出話しなど長らく懇談した。帰りは私の車に同乗し、帰路に就いた。1・相生M/B・P(15:15)~全員乗車~姫路駅~(新幹線)~加古川駅~自宅(17:30)

皆さん今日は仲間に入れて頂きありがとうございました。コロナ禍の日々でありますが楽しい山歩きと歓談時間が過ごせました。また機会が有りましたらよろしくお願い致します。

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天下台山
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