527 鷹ノ巣山〜高御位山〜辻
山火事の後初めて歩けば、焼け焦げた匂い漂い止まず。見るも無残語るも無残。
燃えて積もった灰に覆われ地肌見えぬ凄まじさ。春が来て焼けた木立に芽吹きは如何に・・・。
春が来て焼けた地面に芽は吹くか・・・。
鹿島神社P〜展望台〜百間岩〜鷹ノ巣山(264.2m四等)〜高御位山(299.8m三等/304.2m) 〜
小高御位山〜183.0m(北山分岐)〜北池分岐〜米相場中継跡〜太閤岩〜峠〜
辻(44.8m四等)〜自転車〜鹿島神社P
鷹ノ巣山辺りを眺める(10:09) 百間岩から鷹ノ巣山辺りを眺める(10:28)
鹿島神社の上へ回り込むと立ち木も丸やけになる。地表は黒い灰が覆い焦げた匂いが漂う。背の高い木は運が良ければ新芽が吹くかもしれないが殆どが望めない状況だった。道から下方は延焼を食い止めていた。3・展望台(10:20)百間岩が境と思っていたが西面へもかなり延焼していた。高御位山まで燃えつくされて地肌は黒一色。下って来る人休んでいる人と火事の話をする。4・反射板(10:30)〜5・鷹ノ巣山(10:46)桶居山分岐辺りは桶居山方面へ相当延焼していた(何処までか確認せず)その後、向かい側から来る数組の清掃登山グループに出合う。慰労の言葉を掛けながら進む。6・高御位山(11:29)
高御位山を眺める(10:51) 山火事の跡が痛々しい尖り山は鷹ノ巣山(11:20)
清掃中のハイカー(11:22) 高御位山最高点からの境内(11:29)
小高御位山方面からの眺め:立体的な『9』を捉えたがそれよりも驚く『もの』が写っていた。
何処に何が・・・分かるかな・・・それは人面
大勢の人が昼食したり休んだりしていた。腹が空いていなかったので参拝をし少し会話して発つ(11:35)上って来るハイカー数組は夫婦だった。7・ 小高御位山(11:50)以後も点々とハイカーに会う。北山分岐で地図を見ている男性が居た。「宝殿駅へはどう行けばいいですか」「向こうの尾根を右へ下っていると案内板が有ります」「分岐まで一緒に行きましょ」この男性は大阪の人で「下見に来た」とのことで曽根駅で下りて縦走して来たとのことだった。北山分岐に着く。8・183.0m(12:05)
宝殿駅への分岐も宝殿駅辺りも見えるので視差しながら伝えて別れた。ここから先は(H6.2.13)に歩いて以来だ。当時は微かだった尾根道も今では踏み込まれて快適に歩ける。ペースを落として歩く。間もなく『米相場中継場跡』の看板が立っていた。数メートル左にその拠点があった。9・米相場中継跡(12:27)拠点の看板には
『ここは昔米相場中継所○○していた所である。明石の方を見ては(外?)に出て○○大きな旗を振り姫路の方を見ては旗を振り一日のうち幾度となく繰り返していたものだ。明石と姫路の中間にあって米相場の中継をしていたのである。天気の良い日には村なかでも旗を振っているのがよく見えたものである。それは明治時代の頃の話である。電信と電話の発達が旗振りを不要にしたのである。志方町誌より』看板の字は風化して、筆跡をなぞっていたが判読困難な字あり。
少し下ると露岩が飛び出していた。看板には『太閤岩』とあり。10・太閤岩(12:30)看板には『今を去る事4百有余年の昔、天正年間に羽柴秀吉が志方城を攻めた時、ここに本陣をおいてこの岩に腰をおろして采配をとったといい伝えられている。今この岩の上に立つと城山は指呼の間にあり横大路・氷室原成井の砦から遠くは中道子山城・東は神吉・加古川の諸城・西は姫路まで手にとるように見わたされて軍兵を指揮するに格好の場所であったことがうなずかれる。ここから眺められる尾上・高砂・曽根をはじめ淡路・四國の島々の景色はまことにうつくしい。志方町誌より』
10・太閤岩:南から(12:30) 太閤岩:下方から見上げる
そこからも快適に下って上り、下り切ると峠。1・峠(12:44)休まず△辻を目指す。巡視路が在って快適に上る。道の左右は激柴笹ヤブで、さて石標まで辿り着けるか・・・。鉄塔下直前から左に在る石標めがけて踏み跡が付いていた。是が無ければ諦めていたかも知れない。12・△辻(12:51)展望なし。頂きは扁平で建物跡かも知れない。引き返し1・峠(13:00)〜自転車で走る〜2・鹿島神社P(13:20)
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