360 南小田(T)〜本村(高峰) 大河内町物語その2

スタート前、今日も出会った地元の長老「在る在るその道良い道が」気分良くして入って見れば、
初めは見事な石畳、次は見事な石組み石室、大師坐像に手を合わせ、難無く着いた2度目の峠。
今日は尾根を北へと上り、着いた点名南小田は南北西面全開で今が盛りの紅葉展望。
北へ北へ尾根辿り、ハチサンロクの裾歩き東尾根へ入って見れば、
始めは快適後は倒木、着いた本村おにぎり食べて577から林道終点。
南小田地区(南小田小学校前)〜為信地区への破線谷(お嫁さんロード)〜峠〜尾根北進〜
△南小田ーT(776.4m三等)〜尾根北進〜836m東裾通過〜神々の庭〜
Ca820m東尾根を進む〜△本村/高峰(725.2m四等)〜南東へ下る〜577m〜
為信からの林道終点〜お嫁さんロード〜峠〜往路〜南小田(南小田小学校前)。
◎所在地 : 神川町(旧大河内町)南小田小学校と長谷小学校に挟まれた山塊
◎地形図 : 2万5千図 『長谷(はせ)』
◎山行日 : 2005.11.27 (日) 快晴
◎山行条件 : 歩き/単独 Age=58
◎コースの見所 : @発って間もなくの石畳道 A(2)の石仏と石室
B(3)峠の石仏と石室 C(4)〜(5)にかけて南から西の大展望
D(10)から南〜西の大展望 E(11)神々の庭(私感)
F(12)高木雑木と赤松と南展望
◎走行距離 : 往路 58.0km 往復 114.9km 播但道往復 : 1500円
自宅発(7:12)〜加古川・姫路B/P〜播但道〜神崎南LP〜R=8〜
南小田地区(上部)1・(8:30 発8:45)〜2・石仏(8:56 発9:00)〜3・峠(9:14 発9:21)
〜4・(9:33)〜5・南小田ーT(776.6m三等)10:06 発10:10〜6・(10:16)〜
7・(10:20)〜8・(10:25)〜9・(10:32)〜10・(10:44)〜11・神々の庭(10:52)〜
12・(10:57)〜13・(11:06)〜14・(11:18)〜15・(11:25)〜16・(11:30)〜
17・(11:45)〜18・本村725.7m四等(12:00 おにぎり 発12:24)〜19・(12:32)〜
20・577m(12:40)〜21・(12:55 探索 発13:03)〜22・林道終点(13:12)〜
23・(13:36)〜3・峠(13:43)〜2・石仏(13:55 発14:02)〜
石垣探索(14:05 発14:11)〜1・(14:00 発14:30)〜往路〜自宅(16:09)
妻が所要で山へ行けなくなり急遽単独登山になった。妻同行では地形とコースタイム的に無理と考えていた所へ行く事にした。コース
bR58 の「お嫁さんロード」の残る半分と峠から北へ上って南小田(T)を通過して尾根をぐる〜と右回りで本村725.7m四等まで行く事にした。峠から南小田へ下る道は未知?なので一度歩いている為信地区から上って上記周回して南小田地区に下る事にして家を出た。
播但道から見る山々は丁度見頃に紅葉して凄くきれいだった。先ずは下山口の上部南小田へ向かった。下部の南小田からも点名南小田(T)が美しく見えていて写真に収め、R=8から外れて上部南小田地区へ入って行った。破線の谷への道を探しながら走っていると、またもや新聞を持って歩いている人(頬からあごにかけてヒゲをたくわえておられ、80歳位)が居られ道をたずねた。
『ここから山越えで為信へ行きたいのですが山越えの道は今も在りますか』『為信やったら寺前から・・・』『そうでなく歩いて峠を越えて・・・』『その道やったら在る在る、昔は峠を越えて為信へ田植えに行きよった、峠には石仏が祀られていて為信には権現さんが祀って在る。当時は道の草刈もしていたけど今はしていないからどうなっているか・・・』『道はどこから入っていますか・・・』『あしこの杉の木の生えている・・・』ならば今も明るい道が在るに違いないと思って、自転車のデポは止めてここから発ってここに戻って来る事にし、お礼を言って別れた。
俗に言う「太鼓小屋」の所から谷筋を上った(急斜面)。車を止める広場は無かったが道が膨らんだ所に止めた。
1・(8:30) 上部にはデッカイ砂防ダムが在って、それによって峠への道が遮断されてしまって道が無くなっているのでは・・・と思い心配しながら支度をしていると、上に止まっていた軽トラが下って来た。これ幸いに峠への道をたずねた。『為信へ抜ける道は何処から入って行くのですか』『ダムの左からで良い道が付いとるわ』運転席には猟銃の一部が見え、荷台に積まれた箱には犬が入っていた。
発(8:45)
(1)車を止めた所から上部を見る正面にダムが見える 現場はもっときれいな石畳の道
発って直ぐ道端に小さなお社が建っていてお参りしてダムにちかづいて行った。大きなダムの割には少量の水しか流れていない谷川を、ダムの看板は「クズリ谷川」道の角杭は「クヅリ谷川」となっていた。入り口から少しはコンクリートで固められていたがその後、見事な石畳の道になってビックリするやら感動するやら・・・。『何処まで続くのかな・・・』と思いながら上っていると道は分岐になる。
(8:51) 左は綺麗に積まれた石垣に沿って上がっていた。『どっちの道・・・』と思ったが広い方を選んで上った。
傾斜が緩むと石畳は消えてU字に窪んだ道の右を守る石垣も見事、それも終えて緩い谷を回りこむと間もなく黄色に染まった明るい自然林の中、道の左に石室(間口70高さ80奥行き100cm)が在った。
2・石仏(8:56) 覗くと大師坐像が祀られていて、施主 岩城平三郎 明治四十一年三月21日台座の前面に弘法尊と彫られていた。今年11月5日に歩いた「挟戸」で神社で見て疑問視していた「弘法○」はやはり「尊」の可能性が大きくなった。ここで心に残ったのは石室内部の石組みの美しさで、今まで記憶に無いものであった。
発(9:00)

(2)石室と石仏:南から
道はよく踏み込まれて残っていた。傾斜は緩く、右下より水音を聞きながら上った。左は色付いた高木雑木右は桧林、やがて植林帯に入って分岐があるも本道?を上って行く。左上に『あれが峠への旧道では・・・』と横目で見ながら上った。ジグザグと上っていると明るく開けて水がにじみ出たり、細い流れのある湿地帯に出た。峠から△南小田への尾根がチラリと見えた。
間もなく太い杉林に入って行き、しばらくすると見覚えの有る峠に着いた。
3・峠(9:14) 前回曖昧だった石室の間口を測ると190cmだった。お大師さんに『またやって来なはったんか、あんたもすきやねー』と言われているようだった。今日は石室の清掃奉仕をして△南小田へ向かって発った。
発(9:21) 左植林右高木雑木の界を上る。一段目を上り切り、短い横ばいの後二段目へ上っていると左下から鹿網が上がってきて、尾根左が伐採地になって開けた。網の右側に沿って上っていると網目から△南小田辺りが見えてきた。
(9:25)
振り返ると峠から寺前城跡へうねった長い尾根がほぼ視程に入った。右の急斜面に生える太い高木雑木の黄葉がなんとも美しく、思いのままに見て歩き上り切る。
4・(9:33) 横ばいに入ると1ヶ所倒木に遭うが右を巻いて進む、太いアセビも多く、今年も花を沢山付けていた。いよいよ激登りが始まる。山肌はガラ場に変わった。やがて、どこをどうやって登るか思案する岩場に直面・・・
(9:40) それでも鹿網は上へと続いていたが網に沿ってはとても登れない、右に大きく巻けば登れそうだったが、そこは山猿、かなり危険ではあったが岩場に足場を見つけ、木を頼りに登り切った。
そうそうこの山も赤い実を付けたサルトリイバラと野イバラが沢山生えていて、それは先も続いた。東を眺めると足元下に為信地区と大きな砂防ダムと林道が見え、その上の方に白岩山とピラミダルな高畑山が実に美しく見えた。西は明神山とその手前に七種三山が同定できた。傾斜は緩み鹿網に沿って上り、やっと網の下を潜れる所があって網の中に入った。(もつと早く入りたかったが入れる所が無かった)大形、中型二頭の鹿が角を網に絡ませて白骨化していた(何度見てもかわいそうな姿だ)。網の中はススキ原で桧が植えられていたが自然環境が厳しいのだろう「こぶれ」てしまってほとんど成長していなかった。

(5)南小田手前尾根西側のススキ原 (5)△南小田:南から
切り株を足場に使って鹿網を乗り越え△南小田に着いた。
5・△南小田(10:06) 石標は丈の低い笹原の中に静かに建っていた。展望は西の低木の上から山並が見えていたが同定できない。 おやつを食べて発つ。
(10:10) 尾根右の高木雑木は続いてその樹間から△本村が同定でき、その南東577mから南の尾根に美しい黄葉を見る。これは下山コースの一つに考えていた尾根である。その他は小さな雑木帯が1ヶ所在るだけで植林帯の緑色だった。笹を踏んで快適に歩く。間もなく左前方が開け (6) とその遥か先々の山が見えた。次第に笹の丈が高くなって行く。
鹿網は続いていたが相当古く、支えも疎らで地面を這っていた。
6・(10:16) 西尾根に凄く太い赤松が健在で嬉しかった。少し進むと (10) 辺りとその右に (13) がチラリと覗いた。
7・(10:20) ここも下山コースに考えていた地点。(△本村から (16) へ引き返し、そこから南の703mを経てここにリターンして峠に下る)しかしこれは (16) からこちらへが雑木林の場合である。見ると尾根右は高木雑木帯だったが左は倒木混じりの植林帯だった。一応マーキングをして進んだ。左右とも植林帯を緩く下って上って
8・(10:25)
いつ頃からか確かな踏み跡が出ていた。下山コースの一つに考えていた南小田地区と繋がる破線を見つけようと気を付けて歩いたが見つける事ができなく、既に消えてしまったか・・・。しかし、破線の直ぐ西の尾根は下れそうだった。冷たい風が吹き抜けて行く、間もなく上りに掛かる。
9・(10:32) 尾根は開け明るくなり右桧林の上から (16) と (18・本村) が重なって見え、『とりあえずあそこまで行くのか・・・』赤松が生える (12〜13) も見えてその尾根へトラバースを考えていたので、そのポイントを探しながら上っていたが踏み跡がしっかりしていたので道なりに進んで(北への破線の道は不明)上り切る。
10・(10:44)
左に小規模の倒木帯が在り、先端に行くと西から南が全開して△南小田から西に下る尾根の先にR=8沿いの下部南小田地区とその上に寺前城跡とその辺りの山塊が視程に入った。道は緩く下ってコルから836m裾を右(北)へ巻いて行く。右植林の中に明るく開けた所が在り、踏み込んで見るとシダや草や低木がが生えて源頭だろう水が湧き出ていた。それは下方へと続いていたが深入りはせず元に戻ったがこの場所を「神々の庭」と命名した。おそらく、5〜60年前は自然林だったと想われ、地形から想像するとどれほど素晴らしい環境だったかと想いを馳せた。
(9)からの上りで(16)と(18・本村)左16番右18番 「神々の庭」 山猿の私感
薄暗い植林帯を横ばいに進む、朽ちた鹿網が所々に現れる、道は消えてしまう。すると前方に感動的な自然林が出る、左の植林帯をも圧倒して、それが気にならなかった。先端まで行って見ると植界と共に切れ落ちていた。
12・(10:57) しばらく身を置いて自然に溶け込む(つもり)単独行ならではの醍醐味か・・・。落ち葉を踏みながら、ユックリゆっくり、直ぐ上に見えている尾根へ上る。進む尾根には太い赤松が残されていた。これもまた嬉しい。右緩い谷の彼方に (8)と△南小田が見えた。もう少し先からは白岩山や高畑山が霞みながら見えた。
13・(11:06)

(12)地点の自然林
後はこの尾根を進むだけ・・・と安易に思っていた、しばらくは快適だったが次第に実生の松が茂りだし、鉈で枝を払いながら進んだがそれはますます密になり尾根も不明になる。左は桧林も植えっぱなしのため枝が張り、交差していて歩き辛い。視界も閉ざされて不安になる、コンパスを信じて下っていると鹿網が出た。結果、朽ちた鹿網を見逃さずそれに沿って下れば良かったがこれは実生の松の密生に苦労するだろう。
やがて開けた尾根コルに出てホッ。
14・(11:18) 北が開けてフェノバ?△高星山・から下り町境界の尾根とその南山肌が見えるも少し霞み気味で感動は得られず。少しシダを分けて歩き、上り返して
15・(11:25) 振り返ると (13)から(10) 辺りまでが見えた。上り切ると左右共に植林帯になって尾根を進む。
16・(11:30) ここから南の703mへリターンする計画は植林帯の海で淡くも消えた。心配していた倒木が目立ち始めるが丁度尾根から右に倒れていて左側を通過できて難なし。左がすごい切れ落ちになる、間も無く切れ落ちた尾根に凄い岩場(岩頭)が現れて立ち寄ると、長谷ダムとその周辺が大きく展望できた。
(11:35)
岩頭への切り開きをして、そこを離れ、その岩の下へ寄って見たが新発見は無かった。
発(11:39) 一部露岩が出て倒木が尾根を遮るようになるもザックを背負っているだけの身ではこれしきの事は苦にならない。倒木の上を渡り下を潜って風?の如く擦り抜けて行く。やがて横ばいになると左が高木雑木帯になって△本村の取り付きにちかづいた。
17・(11:45) 昨年の台風被害に遭ってへし折れている雑木を何本か見ながら上り切ると、茎だけが残ったタケニグサに囲まれて三角石標が建っていた。
18・点名本村(12:00)
私の宝物「大川内町の見晴台 7つのビュウポイント」によると「南・東瀬戸内海が見える。更に四国、神崎郡も一望できる。」と記されているので直ぐに展望に入った。北側の高木雑木の木は葉を落とし始め、南は植林が成長して展望なし。高木雑木の間から見えた水色の屋根は幼稚園か・・・。歳月の経過をまざまざと感じ、知らされる展望に『これもまた良し自然は千変万化』。ここには、生きているのかはたまたその使命を終えてかTVアンテナが8本並んで立っていた。

(18)本村/高峰:南から (18)本村/高峰の石標:南から
北から暗雲立ち込めて来て冷たい風が吹き抜ける。577mへは尾根が無い、コンパスで見ると、植林帯との界はやや東によっていた、危ない危ない・・・、誘い込まれなくて良かった。コンパスを信じて今日も下る。
発(12:24 マーキングしていない) 杉林の急下りをしていると尾根らしき地形になって間もなく明確な尾根に乗ってホッ。しかし、ほっとしたのもつかの間、今度は倒木の海が待っていた。
19・(12:32)
これがあるからコース設定がかなり難しくなってきたが余り神経質になると山歩き自体がおっくうになるので余り深く考えな事にしている。乗り越え潜り進んでいると樹間が開けて入炭山の尾根の向こうに白岩山、高畑山が覗く。獣臭い尾根を下ってコルに着く。このコルから谷を下る事も考えていたが577mが色付いた高木雑木と分って、その尾根を下る事にしていた。短い急登で577mに乗った。振り返ると一面みどりの△本村がそびえていた。
20・577m(12:40)
雑木の間から為信地区や市川(川)の下流の方まで見えた。左右切れ落ちの雑木尾根を緩く下る。為信からの林道終点で見た浮彫石仏道標の「右 氏神」の氏神さんは谷の何所かに在る、所在を確認したかったので、メボシを付けた谷の合流点に下るべくポイントを探りながら下った。そして、方向が変わり始めた所から思い切って右の谷へ突っ込んで下る。直ぐに太い杉林に変わってズルズル滑りながら下り谷筋に着くと、577m手前コルからの谷は急な岩盤谷で細い水が落ちていた。『この谷を下らなくて良かった』と思った。
21・(12:55)
前方から、かなり大きな水音がしてきた。神々の庭から湧き出た水もこの谷に流れ込んでいるだろう。『氏神さんを祀るとすればこの辺りの緩い地形の何処か・・・』と思っていたので早速探索に入る。太い杉に白と黄のペンキが塗られて赤で「ア」の字が書かれ、見える範囲の広さで円を描いてマークされていた。その中に低い石垣が点在していて一番下のは中央が分断されていて階段跡かと思う。ここが氏神の神社跡か・・・。
発(13:03)

一番大きく残っていた石垣の右側半分
谷川を渡ると踏み込まれた道が在って、薄くなりながらも上へと上がっていたがもう探索する元気も無く気になりながらも下った。すると道を増水被害から守る為か谷側沿いに石垣が積まれていたりして昔はよく通われた参道だった事が伺えた。ここで、『しかし待てよ、今もこの道を突き詰めた辺りに氏神さまが祀られているかも知れない』と思ったが引き返すだけの余力は無かった。左の谷には小さな滝?や滑ら滝が点々と在り、それらも見ながら下った。 22・林道終点(13:12)
為信の地名の由来は「住昔、小松為信重行という人が当地域を開拓した事により、その人の名に起因すると伝承されている。また当時の地形と土地利用をしらべタメは水をためる、ノブはその水を延ばしていくととなえる向きもある。事実慶長絵地図には為信村とある」とお宝の「大河内町の地名とその由来(2)大河内町のルーツを探る10地名」に記されている。
今日も大日如来様に手を合わせ、峠に向かって上り始めた。そして 23・(13:36) 炭焼き窯跡に着いて前回の記述の間違いに気が付いた。ここから左の尾根を巻いて上り 3・峠(13:43) お大師様に『お陰様で無事只今帰ってきました』と心でお礼を言って通過し、どんどん下った。朝の上りで見て気になっていた「本来の道」と思った道を下って見ると、やはりこちらが古道のようにも思われたが・・・。やがて今の道に合流して下り 2・石仏(13:55)
朝は気持ちに余裕が無くて何も出来なかったので、石室内に舞い込んだ落ち葉をかき出し、榊をお供えした。ここにもこの時期としては暖かい黄色に染まったかのような日差しが当っていた。思い返せば、朝からずうっと同じ方向からお日様が差している様に思ったのは何故だろう・・・。 発(14:02) 次も朝方気になっていた分岐道の石垣の探索に入った。『この道の先には必ず何かが在る』と確信するだけの美しく積まれた石垣に沿って上ると、間もなく建物は残っていなかったが建物が建っていたと思われる石垣群が出た。 (14:05) 石室と言い、石垣と言い『大河内町には石垣文化が発達していたか・・・。』と変な文化を発想してそこを後にした。 発(14:11)

登山口近くの石垣群の一部
前回と言い今回と言い同じように新聞を持った人に出会って運良く旧道等を教えてもらう事が出来たのは「幸運」だけではすまされない何かを感じつつ車に戻り付いた。さて、次なる物語は何処に飛ぶか・・・「大河内町物語」はまだまだ続きます。
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