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bQ61 和正谷(わしょうだに)〜行者山


いま時の人「宮本武蔵」が少年時代に修練したと、知らずに立った行者山は、

大岩壁に大展望。下山尾根は崖の上で回り込んで難を逃れる。

きっと「武蔵」も辿った尾根の「カラス天狗が狐に乗った」稀なる石仏見て手を合わす。




下庵〜横尾に抜ける破線峠〜和正谷(418.3m四等)〜北尾根〜

行者山(460.0m)〜南西尾根〜378.0m〜南西尾根にて下山



◎所在地 : 佐用郡佐用町庵・小和田と同町奥長谷・田坪の山間

◎地形図 : 2万5千図 『土方(ひじま)』

◎山行日 : 2003.4.29 (火) はれ

◎山行条件 : MTB/妻

◎コースの見所 : @点在する高木雑木林 A利神山城跡の遠望
             
             B史実「宮本武蔵」が少年時代に修練した行者山からの大展望

             C下山尾根に祀られている石仏

◎走行距離 : 往路 79.2Km 往復186.5Km

◎高速道路通行料 : 往復3,600円



自宅発(7:20)〜明姫G/R〜播但道〜福崎J・C(7:57)〜佐用I・C(8:25)〜R=373

〜道の駅「ひらふく」(8:30)〜発(8:40)〜R=443(上三河平福線)〜

高尾橋先駐車(8:50)〜発(9:10)〜1・林道終点(9:25)〜2・(9:40)〜3・(9:55)〜

4・和正谷418.3m四等(10:05)〜発(10:25)〜5・(10:30)〜6・(10:44)〜

7・(10:50)〜8・(10:55)〜9.(11:07)〜10・(11:25)〜

11・行者山460.0m(11:35おにぎり)〜発(12:10)〜12.役の小角(えんのおずみ)

石仏(12:35)〜13・(12:50)〜14・(12:55)〜15・378m(13:00)〜発(13:10)

〜16・石仏(13:34)〜17・里(13:43)〜散策〜発(13:55)〜バイク〜車(14:00)〜

18・正蓮庵(14:25)〜発(14:43)〜郷土資料館(14:45)〜発(15:13)〜R=373

〜上石井の風呂(15:25)〜発(15:54)〜岡山県大原町宮本「武蔵の里」(16:03)〜

発(18:20)〜往路(播但道豊富Pで休み)〜自宅(20:03)



「武蔵」シリーズ第2ステージへのチャレンジ!! と言っても3月16日に計画していた利神山城跡からの縦走コースの後半である。その日は「雨によって途中でリタイヤ」と言うことで、何かもやもやが残っていたし、地図の上でも、とても魅力的な尾根なので、今日は前回の続きを辿ることにした。登山口も分っているので気楽に走れた。

「道の駅ひらふく」から見上げる今日の利神山城跡はよく見えた。が前回「霧の切れ間に突如現れて圧巻された」に比べると物足りなさを感じる。R=373からR=443に乗り換えて庵地区へ向った。サテ、何処に車を止めるかそれを探しながら、また前回は雨と霧で見えなかった山並みを眺めながら走る。

庵川に架かる高尾橋を渡って、直ぐ右のガードレール内側の小スペースに止めさせてもらった。(8:50)道端とはいえ通行量が極めて少なく環境は◎。横にある竹やぶでは、猪が出始めたタケノコを根こそぎ食い荒らしていて、私の収穫はゼロ・・?。(発9:10)そこから100m程逆戻りをして前回雨の中下ってきた緩い谷筋をゆっくり上って行った。

1・林道終点(9:25)破線は直に峠を越えているがそんな生易しい傾斜でない。しかし、心配御無用!!大きく南に迂回して峠に着ける作業道がついている。アップを兼ねて、ここはそれを使って尾根に着き少し下って峠に着く 2・(9:40)


峠からのアベマキ主体の雑木尾根  林道終点からの作業道

雨の中おにぎりを食べた所を通過して、落ち葉で滑りながら中上り後(3・9:55)小ヤブの尾根を少し西へ辿ると、利神山城跡からこちらえの尾根が見えた。元に戻って、いよいよ縦走開始となる。左桧右雑木の尾根を行く。小さなコブを越えて和正谷へは、短いつま先上がりの急登でしかもザレでよく滑った。

4・和正谷(10:05)頂上は雑木が伐採されて展望良し、この後回り込んで辿る北の尾根に「やけに尖がったピーク」が目を惹いた。行者山が何処にあるか分っていなかったが、その姿と等高線から判断してこのピークが行者山であろうと思った。その奥に3段ピークの日名倉山更にその奥には後山から駒の尾山を同定した。南面も展望あったが記憶なし。少し長い目の休みをとって発つ。(10:25)


4・和正谷から 行者山へは右から辿る尖り右行者山・奥に日名倉山が見える 7・への緩い上り尾根

ここまでの明るいルートとは違って、「サルトリイバラ」も多い草ヤブとなるが少しの辛抱で開ける。中下り後上り返して5・(10:30)Y字尾根で要注意。左右桧林の尾根を下ると太い赤松が出る。再び美しい雑木帯に変わり、やがて露岩を踏みながら7・(10:50)。ここから、正面の谷を囲む鹿網が出る。北尾根を中下りするが落ち葉でよく滑る。

やがて鹿網が一本のロープのようによれているのを見る。これは、鹿が尾根を越えようとして、網に角を絡ませ、それから逃れようとしてもがいて、もがいて、もがいた結果にできたものである。以後5〜6箇所で見かけたが、その光景を想うと何ともかわいそうで心が痛み胸が詰まる。それでも幸いだったのは、鹿の姿が無かったことである。

鹿による桧や杉の食害が悪いのか、そこへ追いやった人間が悪いのか、これに対する考えは立場立場で異なるところだろう。(8)から先は、得に左が雑木の急斜面でヤブ気味になる。9・(11:07)妻を待つ。行者山への山肌に道らしきものが見える。下ったコルには、やはり道が有った。予想では「庵側から」と思っていたが、東の谷からで「田坪」からの破線に繋がっているようだ。かなり踏み込まれている。

短急登で肩から少し横ばいになる。10・(11:25)峠からの西の深い谷で絶えること無く聞こえてくる鹿の鳴き声。そして西側の険しい岩盤肌に群生して咲く「アオダマ」の白く可憐な花が疲れた体を休ませてくれる。間もなく白木の鳥居をくぐって頂上は間近。中上りしていると石垣と石段の上に建つ御社が見えて頂上に着いた。(11:35)


頂上へ向って上り始めの所にある鳥居  「武蔵」も立った頂上で東向きに建つ御社

地形図には、何故か全く崖・岩マークが入っていないが北から西にかけては断崖絶壁である。北の日名倉山は3段の特徴があるので直ぐに分った。その後に後山、頭を捻ったのは、北東に見える水剣山から黒尾山と思われるピークの同定だった。予想どうり合っているのかは不明である。南西には、利神山から和正谷そして(7)ピークと低山ながらかなり険しい山容を見せながら尾根がうねっていた。

実に穏やかな時を過ごす。(この時点では、この頂などで「武蔵」が修練したことは知らず、里に下りてから知ることになる。)おにぎりを食べながら下山コースを下見すると、岩場の急下りで、はたして安全に下れるか少々不安になる。(12:10)先行の妻の後を追って発つ。少し下ると傾斜が緩くなって、「これなら大丈夫」と思うのは早かった。

先行の妻は、尾根から左に外れて下り、岩盤の途中で座りこんでいた。聞くと、「滑って危なくて下れない」とのこと。私は尾根を下っていた。危ない状況でなかったのでこちらが安全と妻を迎えにいったがかなり危険な岩場で、また一人で引き返した。妻は、更に左に回り込ませることにして私はそのまま岩尾根を下ろうとしたがそこは高さ10m近くあろうかと思う崖の突端だった。


行者山西面の崖とアオダモの白い花  岩場から眺める下山ルート尾根・手前尖り15・ピーク   

仕方なく先ほど通った岩盤をトラバースして妻の後を追う。そして、尾根に復帰するため崖の下を通過していると、崖の付け根の窪みに石仏が祀ってあった。12・(12:35)後で分ったがこれが初めて聞く名の「役の小角(えんのおずみ)」の石仏だった(多分)。高さ50p位で不動明王と思っていた。崖下から尾根に乗ると、そこまでの険しい岩場は突如消えて優しい雑木林のゆる下りとなった。

この尾根には庵からの尾根道がある筈と思い探して見ると、やはり踏み跡があり、それは、岩尾根の北側に有って頂上へと続いていた。頂上から少し下った辺りで尾根から北側に外れるのが「庵コース」のようである。緩く下っていると自然の石組み(岩が重なりあっている)の裾に高さ30p位の大師石仏が手入れされるでもなく祀られていた。

踏み跡は(13)ピーク手前コルから西の急斜面に下っていた。と言うことはここからの尾根はヤブ・・?と思ったが、私は尾根を辿った。尾根にも踏み跡が有り案ずることはなかった。14(・12:55)ここから振り返ると行者山の尖がった頭が見えた。ほぼ横ばいから少しの間中上りで(15・15:00)ここにも初めて見る姿の石仏があり、崩れた石組みの中央に雨、風、雪にも耐えスクッと立っていた。顔は天狗で身体の左右には羽があり足元は狐の上に乗っているという高さ50p幅25センチ位の石仏である。


「武蔵」も手を合わせたであろう『カラス天狗?』  (15)から先でこんな尾根にも巡り合える 
の石仏狐、羽、長い鼻が判るかな

この後(16)でも大師石仏を一体見るがどの石仏も健之年月は不明だった。良石質により劣化少なきによるのか、彫った人物の腕が良かったのかは判らないが3体共顔立ちが実に美しかった。名残おしいがカラス天狗さまに手を合わせそこを発つ。緩く下って行く。やがて左右切れ落ち尾根となり左和正谷の尾根筋と右下には点在する集落が見える。

ルートは変わらず明るい。(16)で苔生した大師石仏を見て間もなく尾根先となり踏み跡はここから右へ下るが次第にヤブっぽくなるも山から里に出た。17・(13:43)その後東の谷(破線=林道)を奥へ辿って登山口がないか探したが見当たらなかった。あれだけの石仏があるからにはそれなりの登山口(参道)が有ってしかりと思うが・・・。

思うに、行者山の表参道は鳥居のある方の田坪からか・・・?。私は山裾の農道で車へ、妻はR=443に出て車に向った。うろうろで出遅れた私にR=443沿いにある神社に立ち寄った妻から私に掛け声あり。R=443に出るところで田圃の畦で昼寝をしていた子狐を見た。全体的に白っぽくほんの少し黒い毛があった。

私に気が付いて山の方へ逃げていったが石仏の狐との因縁を感じつつ車に戻り妻が居る神社へ向った。神社に行くと、その直ぐ横に3間四方位のお堂があり中にはたいそう立派な阿弥陀如来が祀ってあった。そして、そこには「寺守り」と言うか寺を管理して居られる70歳位の男性がおられた。置いてあった小紙とその人(昔の庄屋の子孫で岡田久夫様)の話を聞いて、この寺は浄土宗正覚寺の奥の院とも言える由緒ある庵で「正蓮庵」でした。

道林坊のもとで起居し「武蔵」が8歳から13歳まで経を読み、書を習い、行者山に登って修練し宮本武蔵の人間像の基礎が、ここでの少年時代につくられたそうです。時は慶長元年。武蔵13歳の時、この庵の縁の下から木を持ち出し(木刀に代わる木)宿場町平福の金倉橋のたもとで「新当流の達人・有馬喜兵衛」に初勝負を挑み、一刀のもとに倒したとも・・・。また、岡田家に伝わる「古文書」も見せて頂いたりして、お礼を言って庵を後にした。(14:43)


石仏・カラス天狗?の上半身      町の教育委員会も欲しがっている古文書(逆から写す)


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14
13
12
11・行者山
10
15・378m
16

和正谷
417.9m